生きる意味について

情報学 | 2007/02/25

「何のために生きているんだろう」「生きる意味なんてないんじゃないか」そんなふうに考えたことがある人はいないでしょうか?苦しいときときや悩んでいるとき、私たちはいつの間にか、そうやって考えてしまうものです。でも、「生きる意味」って、そんな簡単に見つけられるものではありません。しかし、生きる意味っていったい何なのでしょうか。

結論を先に言えば、「生きる意味」などどこにもありません。なぜって、世界のあらゆるものに意味を与える源泉となるのが「生きること」であり、生きることに意味を与えるものはないからです。世界のあらゆるものには意味がありますが、「生きること」には意味がありません。私たちが生きることは、「生きる意味」なんかで表せないほど、かけがえのない、素晴らしいことなのです。

たしかにそれぞれ生きていく中で、「これが生きる意味だ」と感じることもあるかもしれません。しかし、それは決して本当の生きる意味ではなく、「自分が生きていく上で、重視している価値観」に過ぎないものです。「生きること」よりも優先されるようなもの、つまり、「生きること」に意味を与えるようなものは、世界中のどこを探してもないのです。

この記事では、「意味とは何か」という情報学の理論を踏まえながら「生きる意味」について考えていきたいと思います。

(1) 意味とか価値とかそういうこと

ものごとの意味とか価値は、「~にとっての意味」「~にとっての価値」というようにしか考えることができません。たとえば、コンビニに売っている商品に意味があるのは、「お金に換えるために役立つ」「自分が生きるのに役立つ」といった意味があるからです。仕事をすることに意味があるのは、自分が生きるために役立つからです。私たちは、意味や価値が、言葉や品物に備わっていて、それに基づいて生きているように思いがちですが、実は「~にとっての」ということと切り離して「意味」や「価値」を考えることはできないのです。

さて、私たちは私たちは生きていく上で、さまざまなものに意味を見いだしています。私が生きている世界を「私の世界」と言うとすると、「私の世界」のあらゆるものは、私にとって意味があったりなかったりするものです。お金、仕事や学校といった社会の約束ごとも、家族や親しい人との愛情も、全て「私の世界」で起きていることであり、私にとって意味があったり、あるいはなかったりするものです。

たとえば、「自分は会社にとって意味のない人間なんだ」って思ったとします。しかし、考えてみれば、「会社」ということに意味を与えるのは、最終的に自分しかいません。もちろん、社会が「会社」に意味を与えるかもしれませんが、社会的な価値観に意味を与えるのも、「私」しかいないわけです。そういう意味で、世界のあらゆることが「私にとっての意味」として描かれているのです。

逆に言うと、「私が生きること」の意味を、私の外に求めようとしても、そんなものはどこにもありません。世界のあらゆるものに意味を与えるものが、「私が生きること」だからです。私が生きることには意味なんてない。「私が生きること」は、私が生きることに対してだけ意味があるのである。だから逆に、「死んでしまおう」と思えば、その瞬間、意味のあった世界から意味が消えてしまうでしょう。「死のう」と思った瞬間、世界は死んだ世界になってしまいます。

要するに、生きることは、世界のあらゆるものに意味を与えるものであり、そうした私自身の「生」は、世界でたった一つのかけがえのないものなのです。私自身の生きる意味は、そうして私が生きることによって、初めて与えられると言うことができるでしょう。

(2) 価値の対立とかせめぎ合いとかいうこと

Meaning_of_life01 「会社で仕事をして収入を得る」「学校で友達とうまくやっていく」というようなことは、全て私が「私の世界」で生きていく中でで意味が与えられるものです。それらは全て「私にとって」意味があることです。

しかし、一方で、「会社で仕事をして収入を得る」「学校で友達とうまくやっていく」ため、どうすれば良いかということを考えないといけないことがあります。たとえば、「会社で仕事をして収入を得る」ために、辛いのを我慢して仕事にいこうとか、「学校で友達とうまくやっていく」ために、いろいろ気を使おうとかそういうのが当てはまります

たしかに「私が生きる」というのは、自分が生きていく上で一番大切なことですが、その中に、「会社で仕事をして収入を得る」「学校で友達とうまくやっていく」「自分の健康を守る」「曲がったことをしない」といった、さまざまな価値基準があります。これらの価値基準はそれぞれ、ものごとの意味を与えるものであり、その意味で「私が生きる」ということに似た性質を持っているものです。 しかし、これらの価値基準は、「私が生きる」ことに対しては、全て手段に過ぎないわけです。しかし、こうした小さな価値基準は、しばしば絶対的な目的であるかのように思えてしまうものです。会社で仕事をして収入を得るために自分の命を犠牲にしたり、学校で友達とうまくやっていけないことを苦にして自殺しようと思ったりする人は、こうした小さな価値基準が、自分の生きる目的であるかのように思っているのだと思います。

ここで、問題なのは、こうした「価値基準」がしばしば対立してしまうということです。たとえば、「会社で仕事をして収入を得る」ためにどうすれば良いのかという価値基準に基づいて、寝る時間を惜しんで働いたり、理不尽な命令にしたがったりするのが良いのか、「自分の健康を守る」「曲がったことをしない」という価値基準にしたがって、病気の時は会社を休んだり、理不尽な命令は拒否した方が良いのかというような対立です。こうして価値基準が対立するとき、人は悩んだり、苦しんだりします。

このようなとき、複数の価値基準の優劣を誰かが付けてくれれば簡単なのですが、そのような優劣を付けてくれる人はどこにもいません。なぜならば、それを決めるのは、いつも自分だからです。価値基準の対立は、「自分が生きる」ということを通して初めて解消されるのです。だから、価値基準が「自分が生きるための意味」を持っているということを忘れると、対立する価値基準の中で何かを「判断する」ということができなくなってしまいます。そのような時、人は打ちひしがれ、「絶望」という状態になるのです。

(3) 人が社会の道具になるということ

Meaning_of_life02 さて、ここで問題なのは、こうした「価値基準」によって、「私」自身も判断されるということです。たとえば、私の世界の中に「会社で仕事をして収入を得る」という価値基準があったとします。その価値基準はあくまで「私にとっての意味」があるものです。しかし、私たちは、会社の中で、「私」自身がどういう意味を持っているかということを考えてしまいます。「私が生きる」という目的のために、「会社で仕事をして収入を得る」ということがあるはずわけですが、「会社で仕事をして収入を得る」という目的のために、再び「私が生きる」ということができてしまうのです。図にすると、「私が生きる」という大きな丸の中に、「会社で仕事をして収入を得る」という少し小さな丸がある。しかし、その「会社で仕事をして収入を得る」という丸の中に、再び「私が生きること」という丸があることになります。この小さな丸は、いわば「会社」に限定された私の意味を表現するものです。

これは、たまたま「会社」を例にして説明しましたが、学校でも恋愛でも友人でも全て同じです。たとえば、友人のAさんというのは私にとって意味がある存在ですが、Aさんにとっての自分自身の意味というのも考えることができます。人は世界に意味を与えると同時に、自分が意味を与えた世界の中で、再び自分の意味を見いだしているわけです。

ここで、私たちは生きていく中でこうした複数の意味のうち、あるものに「こだわって」ものごとを考えたりします。会社で働くときは、「会社」という視点からものごとを考えることで、良き従業員となります。友人や上司と一緒にいるとき、その人の視点に注目してものごとを考えることで、その人との関係を円滑に進めていくことができます。こうやって一つのものに「こだわって」考える働きは、それ自体、自分が生きるための働きであり、自分が生きていく上で、非常に便利なものです。

しかし、私たちは、いったん一つのことにとらわれてしまうと、本来の「自分が生きる」ということが見えなくなってしまいます。私たちが、会社や友人、家族、プライドのことで悩むとき、会社や友人、家族、プライドが、全て自分が生きるための手段だということが忘れられ、こうしたもののために「死んでしまおう」と思ったりします。

本来、会社も、友人も、家族も、プライドもも全て「私が生きる」ための手段に過ぎません。それらは全て「私が生きる」ことによって意味を与えられるものなのです。しかし、そのことが忘れられるとき、あたかも、「私」は誰かに意味を与えられる存在のように思えてしまうのである。そうなると、人間はあたかも、会社、社会、上司など…の道具であるかのようにとらえらえることになるでしょう。これが、人が社会の道具になるということです。

(4) 人が悩んだり、死のうと思ったりするということ

私たちが生きていく中で、さまざまなことで悩みます。こうした悩みは全て先ほど取り上げた「価値基準の対立」によるものであり、簡単な答えはありません。会社を取るか、自分の健康を取るか、あるいは恋愛と友情のどちらを取るか。こういう価値の対立を決める明確な基準はないのです。ところが、私たちは、自分が生きていくことで、ものごとに意味や価値を与えていくことができます。たしかに、世界そのものには意味はありません。自分がいなければ、世界は「意味のない」死んだ世界です。しかし、自分が生きることによって、吹き抜ける風に涼しさが与えられ、鳥のさえずりにやさしさが与えられます。世界に意味を与えるのは、「私が生きる」ということにほかならないのです。

こうやって「価値がない」ものに価値を与えていくということは、しばしば困難を伴うことです。特に、対立する価値基準のどちらを取るか決めなければいけないというとき、悩まない人はいないでしょう。ただ、人がどんなに悩んでも、それが全て「私が生きる」上でのできごとだということが自覚されていれば、何かしら解決の方法は見つかるものだと思います。「生きる」ということそのものが、価値を与えることであり、解決の方法なのですから、解決の方法は「見つける」というより、ただ「そこにある」と言った方が良いかもしれません。

ところが、一つの価値基準にとらわれ、そうした価値基準が自分が「生きる」ためのものだということが見えなくなってしまっている人、そうした価値基準のために自分が生きているのだと思いこんでしまっている人はそうではありません。そういう人にとって、自分自身は、単なる社会の道具に過ぎないからです。

それでも、自分に「社会の道具」としての意味があると思っている場合はまだましでしょう。社会の道具としての意味は、自分が生きていくための「本当の意味」ではないかもしれませんが、それでも意味には変わりません。だから、そのことを「生きがい」にしてがんばることができます。たとえば、「自分は仕事をしているから生きる意味がある」「学校で良い成績が取れるから生きる意味がある」と考えている人は、それがうまくいっている場合、がんばって努力することができます。しかし、自分自身に「社会の道具」としての意味すらないと考えるようになってしまった人はそうではありません。そういう人は、自分には生きる意味がないと思い、「生きる意味がない」、「死ぬしかない」という結論に至ることになります。

そういうとき、自分がとらわれている価値基準以外にも価値基準があるということに気づけば、問題は自然に解決するものです。そのことによって、そうした価値基準自体が、自分が生きることによって初めて意味が与えられるものだということに気づくことができるからです。たとえば、私たちは、気分転換や趣味を見つけること、あるいは、周囲の人が自分のことを心配しているということに気づくというようなことを通して、普段、自分が囚われている価値基準以外の価値基準の外側に目を向けることができます。そして、そのことを通して、「自分自身が生きることそのもの」についても見つめ直すことができます。

たとえば、自殺しようとする人が、「勉強もできないし、友達ともうまくやっていけないのなら生きている意味がない」というとき、「学校の中で勉強をし、友達ともうまくやっていかないといけない」という価値基準にとらわれているわけです。これは大人の自殺でも同じです。「自分は仕事もできないし、周りに対して何もできない、こんなんだったら死んだ方がいい」と言うとき、仕事をしていく以外に社会の中での自分の価値、役割があるということが見えなくなっているし、さらに言えば、そもそもそういう社会の価値基準に意味を与えるのが、「自分が生きる」ということだということが見えなくなってしまっていると言えます。

こうした状況で、何よりも必要なのは、自分が囚われている価値基準以外の価値基準に目を向けることではないでしょうか。気分転換や趣味を見つけたり、周囲の人に目を向けること。そのことによって、世界のあらゆるものに意味を与えているのは、自分が生きることにほかならないと気づくことができるからです。
 

○補足(情報学と生きる意味)

今回の記事では、あえて情報学の用語を使わないようにしましたが、この記事と、情報学の関係について簡単に説明したいと思います。

「意味」が何かによってしか与えられないということや、「価値の対立」を解決することができないということは、全て情報学の議論導かれる結論です。情報の意味を与えるのは「システム」である一方、システムの意味は別のシステムによってしか与えられないという関係として定式化されます。そのことを「生きる」ということに当てはめたのが、ここまでの議論でした。

この記事を通して、こうしたことにも興味を持っていただけると幸いです。

○関連記事

恋することと情報学
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_cb77.html

生きる意味
http://anond.hatelabo.jp/20090301034255

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

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コメント

そもそもどこを探しても「自分自身が生きる意味」など見つからない
世界に対して意味づけを行うことは「生きる」ことでしかできない
そして、世界はあらゆる形の「意味づけ」によってできている。

なんか心がスッとする文章でした。つい印刷してトイレで読みました。

腹に落ちるまで 反芻してみようとおもっています。

素敵な文章を掲載していただき、ありがとうございました。

投稿: 岩瀬 | 2008/04/13 14:07:49

色々と考えさせられる文面でした。冷静に生きることの意味を考える人は人生に余裕のある人、または全く余裕のない人、要するに生や死に対して良くも悪くも今現在に強い関心を抱いている人だと思います。ごく一般市民は普段からそのような事を深く考えて生きているでしょうか?きっと生きていくことの意味を考える前に目の前の出来事に優先順位を置いて生きることや死に対して無関心でいられるのが幸せだと思っているではないでしょうか。私も生きている意味は深く考えないようにしています。自分は弱い立場の人に少しだけ優しくなれる気持ちがあればそれで充分だと思っています。今回、このブログを拝見してとても感心させられました。少し生きることの意味を考えました。しかし、結果的に明日になれば暗いニュースが流れるなか無関心でいたい自分がいるのでしょう。極端に言えば余裕が人を幸せにするのでしょう。考える時間があるのだから。食べることに精一杯の人に生きている意味、価値観など無関係です。今の社会はそういうものです。

投稿: kenta | 2008/04/17 3:00:39

簡潔で面白い文章でした。でもやっぱりトピックも難しいし、文章も深かったので、何度か反復して読んでしまいました。「生きる意味」って結構みんなよく考えるトピックで、特に逆境に立たされた時にふと脳裏をよぎると思います。まぁ、「生きる意味」はナイ!っていうのはある意味正論だと思います。私たちは生きているから、物事に意味を見出すことができるわけで、生まれてこなければ、あるいは死んでしまえば、私たちの生きている脳の中でだけ存在するその意味は存在しないわけで。だけど、私たちが生きている限り、自分にとっての「生きる意味」っていうのは存在するんじゃないかなって思います。何か特別に他の物事を媒介してその意味を生み出すんじゃなくて、「生きることそれ自体」なんじゃないかなって思うんですよ。なんていうのかなぁ。やっぱり言葉にするのは難しいですけど(笑)。何かをする為に、とか、何かを得る為に、とか、誰かの為に、とか、その「~の為に」生きているっていうんじゃなくて、私たちは自分たちの意思なんて無いところから生まれてきちゃったんだけど、生まれたからには「死ぬまで生きる」っていうのが、私たちの「生きる意味」なんだと思うんですよね。まぁその「死ぬまで」なんですけどね、その自分にとっての「生きている意味」が存在するのは。でもね、それはあくまで自分にとっての「生きる意味」であって、自分の「存在の意味」とはやっぱり全然違うから、そこはちゃんと区別しないとダメですよね。「存在の意味」になっちゃうと、今度は自分だけじゃなくて、自分の周りの世界との相互関係で意味を見出すことになるんじゃないかなぁっと思います。

投稿: marie | 2008/04/25 23:26:37

心が少し楽になりました。
生きること自体に意味を見いだすことができ、以前よりも毎日を大切にできそうです。

投稿: 館月 | 2008/07/06 23:05:47

要するに生きる意味は自分が快と思うことによって付け加えられているということですよね。じゃあそのちいさな丸(価値)が一つもなかったら生きる意味はまるでないということですか?確かに自分の価値は自分で決めるものだけど、自分の価値観を決めるものはなんだとおもいますか?自分に生まれた時からそなわっていたものなんてたかが知れてると思います。環境がほとんどじゃないかな。もしそうだとしたら自分は価値観ですら他人をとうして定まったものなのに、どうして価値は自分の中だけで決められるんですか?それはおかしいですよね。会社で自分の価値がないと感じるのは、他人がじぶんよりも上にいると感じるからじゃないんですか?話が変わりますがもしも植物人間になってもいきたいと思いますか?自分が死んでしまったらこの世界が存在してるかどうかもわからないのに。他人が悲しむかどうかなんて分からない。だって、他人の行動や言動が真実であるかなんて、だれにも分からないのだから。なんかわけ分かんない文ですみません。

投稿: oxtuli | 2008/08/12 10:56:25

oxtuliさん

コメントありがとうございます。

> 要するに生きる意味は自分が快と思うことによって付け加えられているということですよね。
> じゃあそのちいさな丸(価値)が一つもなかったら生きる意味はまるでないということですか?

上の解釈まったく逆です。
価値を与えるのは、「自分が生きること」だというのが、
本文で書いたことの趣旨ですから。

小さな丸(自分が生きていく上での価値の一部をなす小さな価値観、
具体的には、社会的に常識とされるような価値観)がないというのは、
社会的な生き物である人間にとって、通常ありえない状態です。
それを仮定することにはあまり意味があるとは思えませんが、
もしありえたとしたら、その人は自分の生を絶対的に肯定しているということになると思います。

> 確かに自分の価値は自分で決めるものだけど、自分の価値観を決めるものはなんだとおもいますか?
> 自分に生まれた時からそなわっていたものなんてたかが知れてると思います。
> 環境がほとんどじゃないかな。
> もしそうだとしたら自分は価値観ですら他人をとうして定まったものなのに、
> どうして価値は自分の中だけで決められるんですか?それはおかしいですよね。
> 会社で自分の価値がないと感じるのは、
> 他人がじぶんよりも上にいると感じるからじゃないんですか?

おっしゃる通り、私たちは環境にさまざまな影響を受けています。
本文は、まさにそういうことを踏まえて書いたものです。

私たちは、価値というのを、単純に測定できるものとして考えてしまいがちです。
リンゴの価値、ライターの価値、肥料の価値、
たしかに全部値段がついていて、測定することもできそうです。
でも、考えれば分かるように、そういう価値は人によって違うものです。
実際問題、たばこを吸わず、農作物の栽培もしていない自分は、
タダであっても、ライターや肥料をもらおうとは思わないでしょう。

これは、おっしゃるように、
Aさんという人が社会からさまざまな影響を受けていることにも当てはまるのです。
なぜなら、今度は、その「影響」を誰にとっての影響かという問題になってしまうからです。
「影響」も、どの程度の影響かを判断する価値観がなければ議論することができないのです。
これは非常に複雑な問題です。
結論を言えば、ここからくる複雑な問題を解決する方法一つしかありません。
それは、「私が生きている上でのさまざまな価値の問題は、すべて<私にとっての価値>の問題だ」
と考えることなのです。

こうした議論が誤解を招きやすいのは、
私たちが言語を使ってコミュニケーションをするとき、
しばしば「社会にとっての価値」が議論されてしまうからだと思います。
こうしてブログのコメント欄で議論しているときも同じで、
私たちは気づかないうちに「社会にとっての価値」を議論してしまう傾向にあるのです。
では、私にとっての価値って何なんだろう、
それを考えるのが、システム論であり情報学なのです。

「生きる意味」の問題はそのための練習問題だと考えてもらえればと思います。

> 話が変わりますがもしも植物人間になってもいきたいと思いますか?
> 自分が死んでしまったらこの世界が存在してるかどうかもわからないのに。
> 他人が悲しむかどうかなんて分からない。
> だって、他人の行動や言動が真実であるかなんて、だれにも分からないのだから。

この疑問に対しても、まさにこの記事の本文が答えているでしょう。
自分がどうやって死にたいか、それも結局のところ「自分が生きていく上での価値観」の問題です。
ここで、「自分が生きていく上での価値観」というのは、
自分が今までに受け入れてきたさまざまな社会の価値観を含んだものです。
そうしたことを含んだ「自分が生きていく上での価値観」、
自分の死という問題だからこそ、
それが一番問われるのではないかと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2008/08/21 2:02:13

こんばんは、興味深く拝見いたしました。

> たしかにそれぞれ生きていく中で、「これが生きる意味だ」と感じることもあるかもしれません。しかし、それは決して本当の生きる意味ではなく、「自分が生きていく上で、重視している価値観」に過ぎないものです。「生きること」よりも優先されるようなもの、つまり、「生きること」に意味を与えるようなものは、世界中のどこを探してもないのです。
上記部分についてなのですが、
> 会社で仕事をして収入を得るために自分の命を犠牲にしたり、学校で友達とうまくやっていけないことを苦にして自殺しようと思ったりする
というような場合、生きていることよりもその小さな価値観を優先しているのですから、その価値観は生きていることに意味を与えているとは言えないのでしょうか?

> このようなとき、複数の価値基準の優劣を
> それでも、自分に「社会の道具」
などいくつかの下りを通して仰っていることを理解しようと試みたのですが、私の理解力不足で理解出来ませんでした。
もしよろしければ教えていただけると嬉しいです。

投稿: al001 | 2009/03/02 22:49:10

はてなからきました。

>「生きる意味」などどこにもありません。なぜって、世界のあらゆるものに意味を与える源泉となるのが「生きること」であり、生きることそのものに意味を与えるものは、どこにもないからです。世界のあらゆるものには意味がありますが、「生きること」は世界でたった一つ、意味がありません。

この部分に大変感銘を受けました。まったくその通りだと思います。

ただ、

>こうした状況で、何よりも必要なのは、自分が囚われている価値基準以外の価値基準に目を向けることではないでしょうか。

それができないから死にたいと思うのではないでしょうか。
就職試験ではどこからも必要とされなかったけれど、少なくとも親は自分の存在を必要としている。確かにそうですし、どちらにより大きな意味を見出すかも自分次第です。
しかし、人間が他人との関わりの中で生きている以上、意味の決定は他人の影響を受けざるを得ません。一つの価値観にとらわれているとき、そこから抜け出るにはいまの環境から逃げ出すしかない、という状況に追い込まれます。その、逃げ出すという行為に前向きな意味を自分が与えられるなら問題はないのですが、それが出来ない場合に死を選びたくなるのです。
そこまで追い込まれた人間は、意味を与えることができるから生きていることは素晴らしい、とは考えられません。
できるはずのことができない、という精神状態があります。

投稿: happy? | 2009/03/02 23:33:55

コメントありがとうございます

> al001さん

> > 会社で仕事をして収入を得るために自分の命を犠牲にしたり、
> > 学校で友達とうまくやっていけないことを苦にして自殺しようと思ったりする

> というような場合、生きていることよりもその小さな価値観を優先しているのですから、
> その価値観は生きていることに意味を与えているとは言えないのでしょうか?

それは、本来の「生きること」の意味ではないけれど、
「自分なりに解釈された生きること」の意味と言うことができると思います。
ここで重要なのは、
そうした解釈そのものが本来の「生きること」のために行われる
手段に過ぎないということです。

たとえば、会社で働く自分を励ます<ために>、
「会社の利益のために自分が生きている」と思い込むことはできます。
でも、そうやって思うこと自体が、
「自分が生きるため」の営みに過ぎないのです。
だから、会社をクビになったら、
そんな思い込みは捨てて、
「自分が生きることに目的はない」という
出発点に帰れば良いということになるでしょう。

この記事で言っていることは、
こうした「視点の切り替え」の可能性と言うこともできます。

> happy?さん

> それができないから死にたいと思うのではないでしょうか。
(中略)
> そこまで追い込まれた人間は、
> 意味を与えることができるから生きていることは素晴らしい、
> とは考えられません。
> できるはずのことができない、
> という精神状態があります。

全ておっしゃる通りだと思います。
現実に多くの人がそうだという意味では、全く異論がありません。

ただ、たとえばこの文章を読んで、
自分が思っている価値観の外側に、別の価値観があるはず。
と思うことは、
そうした状況を変えるきっかけにはなると思います。

もちろん、理論的に説明したからと言って分かるものではありません。
人によってもっと直感的なきっかけが必要な場合も多いと思います。
ただ、そうやって狭い視点の外側に目を向けられる
<可能性がある>ということは、
言えるのではないでしょうか。

投稿: 情報学ブログ | 2009/03/03 1:02:49

そうですね。可能性はある、と思います。
心の底から絶望している人の死にたいという気持ちを変えることは本当に難しい。直感的なきっかけの他には、時間が次善の処方箋なのかなと思います。

投稿: happy? | 2009/03/03 23:05:15

興味深い文面ですね。
何回も読みました。

私は「生きること自体には意味は無く、意味は自分で見出すもの」というのが持論です。
そして、「人は幸せになる努力をし続けなければならない」という義務がある事と勝手に思っています(笑)
※「持論」や「義務」という単語は、自分に一番しっくりくる言葉なので用いています。本来の意味かどうかは追求していません。

ただ、ずっと気になっている事があります。

「行き続ける事」についての意味が見出せません。
その見出すという必要性も。

・・・矛盾してますよね。

「続ける」のは「幸せ」への距離を詰める事。
「見出す」のは「義務」だと自分で決めたから。

「自分の言葉」の意味をもう少し掘り下げれば・・・何か、みつけられそうな気は常にしています。。。

どこかにヒントは落ちてないですかね(笑)

人はこの世に「生」を受けるとともに「死」に近づいていく。
では「生きる」とは「死ぬ」ってことなのか。

人は何を思い、日々、生きていくんでしょうね(笑)

投稿: さとるさん | 2009/03/09 16:46:37

> さとるさん

「~するべき」「~しないといけない」というようなものを
一般に「規範」と言いますが、
おっしゃっていることは「規範とは何か」という
本質的な問題と関わっていると思います。
本当は本文で扱っても良いようなことなのですが、
話が複雑になるので割愛させてもらいました。

理由まで説明すると長くなりすぎるので、
結論だけ言いますが、
以下のようなことだと思います。

1. 一般に、規範に意味はない。
規範に意味があるように思えるとき、
それは、その規範が成立している「場」以外の「場」から見ているだけである。
規範をその規範が成立している「場」そのものにおいて見れば、
規範には意味はない。

2. 「生きること」は<私にとって>(という「場」における)「意味」がない。
もし、「生きること」に意味があるとしたら、
それは<私にとって>という「場」以外の「場」における意味であり、
本来の「意味」ではない。
しかし、「生きること」は「規範」である。
したがって、生きることに意味はないが、
「生き続けないといけない」という規範を想定するのは正しい。

3. ここで「生き続けなければいけない」というのは、
法律や通常の道徳のように「外から与えられる規範」ではないので、
強制されるものというように考えてはいけない。
この意味での規範は、普通に使われる「規範」よりもかなり広い意味の規範、
内面的な規範である。
比喩的な言い方をすれば、「内なる心の叫び」のようなもの。
私たちは、時には、これに反して生きていくこともできるが、
したがっていく方が自然である。

/////

こういうことを前提に考えれば、

> 「人は幸せになる努力をし続けなければならない」

> 「行き続ける事」についての意味が見出せません。

これは当たり前のことだと思います。
生きることには意味がない、
だけれど、私たちは「生き続けなければいけない」という規範を持っています。
これは矛盾するわけではなく、
そもそも規範というのは
そういうものなのだと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2009/03/09 17:48:59

>こうした悩みは全て先ほど取り上げた
>「価値基準の対立」によるものであり、簡単な答えはありません。

私は「さっさと消えていきたい」、と思っているものです。(そう仮定しておきます)
直接理由は確かに「価値基準の対立」かもしれませんが、本質的には消えていきたいと思っていることと、「価値基準の対立」は無関係です。

具体的に言えば、今の私は会社でもたいした地位にいるわけでもなく(30歳後半でほぼ平社員)、貧乏で女性にももてず、結婚するあてもなく、、、という不幸な?人です。ああ、そういえばうつ病で結局会社辞めたのも付け加えるか。

でもだからなに?という人でもあります。どれも大したことじゃない。だから「この世から消えていきたい」

>自分が囚われている価値基準以外の価値基準に
>目を向けることではないでしょうか。

その論理は、自分が何者にも囚われていない場合は、死んでいいという意味内容になるかと。どこに目を向けても「意味」はありえないのですから。
「意味」が「ある」か「ない」かといえば「ない」。それが「消えていきたい」人が選択する論理のような気がします。

>「世界のあらゆるものに意味を与えているのは、自分が生きることにほかならないと気づくことができるからです。」

それだと、やはり「自分という牢獄」からは抜けられない。「生きること」自体を「先に」肯定してしまっているわけですから。「生きること」が完全に無意味なら、上記の言説自体をまるごと逆転できるでしょう。

「消えていきたい」私から見れば上記の言説は「世界から意味が与えられない私はさっさと消えていい」ことを肯定しているように見えます。私が「世界から意味が与えられない」と思う理由は上記の通り不幸だからです。

でも「不幸だから」は「私の価値基準の対立」とは関係ありません。なぜならそもそも「不幸」とは社会的な意味内容を表したもので、私はそんなものはもともと不幸だと思っていません。

でも、というかだからこそ、この社会から消えたい。

>自分がどうやって死にたいか、それも結局のところ「自分が生きていく上での価値観」の問題です。

それは要するに「早く死ね」と言ってるように見えるのですが。こんなのを読んでないで「私の価値観として」さっさと消えろと言っているように私には見えます。

「社会的な価値観」無視しすぎではないでしょうか(苦笑)。「自分」なんて結局はたいしたものじゃないでしょ。

投稿: 加納正和 | 2009/05/22 2:17:12

生きる意味について考えた事あります。
今考えている時です。
毎日が地獄のように思えて、人の目線が怖くて、人間が嫌いで、こんな自分仕方ないですよね。生きているだけで価値はあるって言う人がいるけど、生きてるだけで何もしないなんて、そんな人間に価値なんてないです。私は実際、そうなんです。皆に迷惑ばっかかけてしまう私なんてこの世から消えてしまえばいいんだって思います。でも、心の中では、いつの間にか「生きたい!」って気持ちに変わってました。でも、結局は、うまくいかず、落ち込んでしまう毎日です。ベッドの中で泣きつくして、泣いたって何一つ変わらないのに、今の私がいるのは本当に奇跡な事なんです。
誰にも負けないように強くなりたいって思います。
でも、その度、強くなるどころか、たくさんの人を傷付けてしまいました。悔しいです。もぅ、変われないのかな。って思うと、また死にたいって思うようになってしまいます。人間関係って、今の世の中、難しくって、戦争時代でもいいから、その時代に生まれたかったです。今、生きるのとか、学校行くのめんどうなんで、「早く老人になりたいです。」この事をいとこに言ったら爆笑されましたけど…。学校行くぐらいだったら核兵器実験するほうがまだまっしって言ってる人いるけど、それって=死にたいって事に聞こえます。
そんな事思っている人のほうが多いって思います。

投稿: 林檎♪ | 2010/03/07 21:28:42

どんなに御託並べても、死ぬ以外では救われない人間は居る

当たり前に幸せな人間には想像できないだけ

投稿: | 2010/08/15 15:36:32

意味なんて考えてない
死ぬってただ一直線

もう他に考える事なんかない

今すぐでも死ねる

助けてほしいけど誰も助けられない


もう問題とも向き合えない

死ねる

死ぬ そんだけしか思ってない


私は昔から不幸だったな…

他にもいるっていっても

私だって相当ツラかったんだから

投稿: | 2011/01/20 18:46:11

生きる行為そのもの。
 

投稿: seed | 2011/02/08 2:54:10


生きる意味は人それぞれちがうものだと思います 自分の人生の中で見つけていくものだと思います あくまで自分の考えですがこの世界に生まれてきたということは 時間を与えてもらったということだと思います その時間をどう使うかはその人次第で使いようによっては幸せにもなれるし不幸にもなれるし全部自分しだいやと思います 要はやりたいことやらしてもらえるチャンスを神様がくれたんやと思います リアルRPGですね 自分はせっかく生まれてきたんやから絶対幸せになってやろうて思います 神様ありがとう

投稿: sora | 2011/02/09 20:28:10

戯れ言だなw

投稿: | 2011/04/11 12:41:10


キレイ事言わないで

投稿: | 2011/04/27 17:10:23

生命というのは、非常に意味のないものです。人間の一生も同じです。
死後の世界について、考えたことはありますか?貴方が生まれる以前と同じです。所謂、「無」です。天国や地獄なんて、所詮は宗教が創り出した幻想です。輪廻転生というのも同様。実際には、人間の人生は一度きり。死んだらそこで終わり。
分かりやすく説明すると、人間の思考は全て脳によって制御されています。よく言われる「魂」なんてものは一切関係ありません。そんなものは存在しません。
脳の機能が失われれば、人間としての全ての機能が奪われます。
生きてるうちに経験できることでは、ノンレム睡眠(夢を見ていない状態)がこれに近い状態。
そしてもう一つ。輪廻転生について。
「HDDが壊れたので、新しいHDDを買いました。
新しいHDDには、古いHDDのデータが入っていました。」
こんな経験ありますか?ないですよね。古いHDDをリサイクルできれば、もしかしたら復元できるかもしれませんが、復元できないレベルに壊れてたら?
これは、人間の埋葬方法に近いものがあります。
遺体は燃やされ、脳は復元不可能。もう転生もできません。

何が言いたいかって?
人生、どれだけ幸福であっても、多くの財産を残したとしても、結局は生命の行き着く先は「無」。
幸や富なんて、何の意味も為さない。記憶にも残らない。
長生きしようが早死にしようが、最期を迎えてしまえば同じ。
では、生きる意味とは何か?そんなものは最初から存在しません。
「生きる」ということは、この上なく残酷なことなのです。

投稿: | 2011/06/02 19:08:59

大した目標もなく死ぬまで姑息に生きてるだけの無価値、無個性な人間にはわからんよ。大きな目標を持った人間のことは

投稿: | 2011/07/08 11:35:36

大きな目標を持つ・・・か。実にくだらんな。

投稿: | 2011/07/19 15:34:36

「生きる意味」ですか。
生まれ育った環境に大きく影響するでしょうね。
健常者であるか障害者であるかでも、生活や心に影響を及ぼすでしょう。
一般的には、他者との関わりから必要とされていて絆があることも生き甲斐になりますし、生活ができるだけの衣食住の対価が得られているかも、生きるためには不可欠です。
「生きる意味」など何処にもなくても、人間には欲心があるのですから、欲心を満たすために、領土を奪い階級を設けて支配しようとしたり、性欲を満たし子孫繁栄に興じたり、金銀財宝を我が者にしようとするのだと思います。
生きる意味がなくとも、競争の中で生きざる負えないのが、人間なのだと思います。

投稿: 保 | 2011/10/29 20:48:42

この文章は、死にたいといいつつどこかで生きたいと思ってる人は最後まで読むと思う。
この文章を最後まで読むことで、生きたいと思うのが嫌な人は読むのを止めるんじゃないか?

投稿: the25才 | 2012/01/26 21:04:11

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