著作権とは何なのか?―共約不可能な価値の対立の問題として

経済・政治・国際 | 2007/02/03

最近、「著作権」の横暴が目立っている気がします。これは、「著作権」に対する無理解が原因とも言えるものです。著作権に対する最大の誤解はそれがモノに対する権利と同じような絶対的な権利だとする見方。本来、著作権は、どちらが正しいと順序をつけられないような複数の価値の対立の中で成り立っているものであって、厳密に解釈したら、明らかに間違った結論になってしまうものです。ところが、あたかも「モノ」に対する権利と同じように著作権を考えてしまうために、さまざまな問題が起きているのです。

今回の記事では、そもそも権利(権原)とは何なのかということを含め、著作権について考えたいと思います。

<筆者の専門は情報学であって情報法ではありません。このため、この記事は、法律に関する解説記事ではなく、法律を含む規範そのものについてメタな立場から説明する記事であることを最初に確認しておきます。>

著作権は、しばしば知的所有権の一種と言われます。ただし、著作権は実体的なモノに対する権利(通常の所有権など)とは本質的に異なるということには注意しないといけないと思います(。

たしかに、著作権は通常の所有権と共通する面もあります。たとえば、ある人が本を売ったとき、本に対する所有権は相手に渡ったと同時に失われるわけですが、この場合、本に対する権利の有無について曖昧さが残ることはありません。

もちろん、同じことを、著作権に対して考えることはできます。たしかに、本の著作権を人に売れば、著作権は相手に渡って、売った人には残らない。ただし、権利が及ぶ範囲とその性質には、先ほどと大きな違いがあるのです。本の場合、権利が及ぶのは、その本という物理的な実体に限定されますが、著作権の場合、社会全体に及ぶという違いです。そして、本の場合は、それを絶対的な権利だと考えてもほとんど問題が起きないが、著作権の場合、絶対的な権利だと言ってしまうと、その時点で別の問題を引き起こしてしまうという特徴があります。別の言い方をすれば、著作権は異なる共約不可能な複数の価値(どちらが正しいと順序をつけられないような複数の価値)の間で、その折り合いをつけるような形で成立している権利であり、そもそも絶対的なものと解して良いものではありません。ここでは、こういった著作権の成立そのものにまつわる本質的な問題について考えていきたいと思います。

ちなみに、この記事では著作権法について読者がある程度知っていることを前提に説明するので、条文を一つ一つ引用したりしません。リンクを貼ったので、必要な場合は、直接確認してください(*1)。

(1) 私的利用

ある人が家に本とコピー機を所有していたとします。この人が、ある本に論評のための書き込みをしたり、順番を並べ替えて整理するために、本のコピーをしたとします。これはどう考えても、その人の家の中のことであり、他の誰にも迷惑をかけていないという見方もできるでしょう。実際、著作権法はこういうことを認めているわけですが(第三十条)、あくまで例外としてであり、逆に言うと、著作権の概念そのものはこうした私的な複製に対しても適用されると考えるは自然でしょう。

たとえば、上と同じことをコンビニのコピー機で行った場合、著作権侵害になります(第三十条)。要するにコピーしたければ、コピー機を買えというのが著作権法の趣旨。また、仲良しの小学生2人が、お気に入りの本を自宅のコピー機で複製し、それに対して交互に書き込んで勉強していたとします。これは、同条の、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」に当てはまると思われますが、これを学習塾で行った場合は、著作権侵害として訴えられることになるでしょう。

つまり、こういった立場から考えると、著作権の本質は、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」の外側と関係するような形で、著作物の複製が行われることを制限する権利だということが分かります。

では、それはなぜなのでしょうか。著作物には、経済的価値や、それが著作者の創作物であるということによる創作的/人格的価値があると言えるでしょう。著作物が無制限に複製された場合、著作者はこれらの点で不利益を受けるのであり、それを対抗するための権利が著作権です。特に、「私的利用」についての議論の場合、前者の経済的利益が問題にされていると考えられるでしょう。

上の論点もここから理解することができます。というのも、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」で複製が行われている限り、著作者は不利益を受けないが、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」の外側と関係するような形で著作物が複製された場合、著作者は不利益を受けると考えられるからです。ただし、この議論はかなり危ういものがあります。たとえば、小学生2人が家の中でコピーをする分には良いとして、5人ならどうか、10人ならどうかと考えるとどうでしょうか。無料の学習室ではどうでしょうか。先ほど挙げたように、本をコピーして書き込むという場合でさえも、その人は本来、本を2冊買って片方に書き込めば良かったという見方もできるわけで、やはり著作権者の利益を損ねています。要するに、厳密に言えば著作権者の利益に反しない複製などない。しかし、それではあまりにもプライベートな領域にまで権利が及びすぎであるため、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」でとりあえず手を打っていると、そう考えた方が正確ではないかと思います。

ここで、著作権と通常の所有権の違いが明らかになります。通常の所有権の場合、それに対する絶対的な権利があるとして、問題が起きることはほとんどありません。ところが、著作権の場合はそうではないということです。ここで、私的利用を保護するべきだという「価値」と、著作権者の利益という「価値」は、共約不可能なものです。別の言い方をすれば、この両者の折り合いをどこで付けるかは、著作権の概念そのものから解決することはできず、他の要素を考慮して考えないといけないということ。つまり、こういった問題については、個別の事例ごとに判断は異なるわけです。

ところが、著作権が絶対的なものであるかのように考えられてしまうと、こうしたことが全く見えなくなってしまい、間違った判断を導いてしまうわけです。

(2) 営利を目的としない上演

すでに著作権が価値の対立として理解されるということは説明したので、後は他にどのような価値と対立するかということについて議論するだけです。たとえば、上記の議論は、営利を目的としない上演(第三十八条)についても成り立ちます。

ある人が家で音楽を演奏したとします。楽譜は著作物ですから、勝手に演奏ことは場合によっては著作権を侵害するとも言えます。また、CDを買ってきて演奏することは、「音」を複製しているのだから、著作権と関係しています。ただ、これらは明らかに楽譜やCDと言った商品の本来の目的に沿った使い方であり、これが著作権法で制限されることはないでしょう。一方、公園で演奏したり、家の前で演奏したりする場合は、著作権とかかわりますが、それが営利を目的としない限り、著作権の侵害にはならないとされています(第三十八条)。

そもそも朗読や演奏は、著作権者が規制できるようなものではなく、個人の自由だとも考えられます。憲法に保障された「表現の自由」を踏まえてもある意味当然のことと言えるでしょう。

一方、ホテルのロビーにピアノが置いてあり、そこにたまたま来た人が演奏した場合はどうでしょうか。これは著作権侵害とされる可能性が高い例です。というのも、ホテルは営利を目的として営業しているのであり、そこにたまたま来た人が演奏した場合でも、それによってホテルの利益につながると考えられるからです。「たまたま来た人」の場合は微妙ですが、「特別に呼んだ人」の場合は著作権者の許可が必要になると考えるのが通例でしょう。一般的には、飲食店を含め、営利を目的とする場において、上演するときは、著作権者の許可が必要だというのが通常の解釈のようです。

ただ、著作権法の「営利を目的としない上演」をどこまで広く解するべきかはかなり微妙ではないかと思います。たとえば、公園で演奏し、カンパを募ることは厳密には「営利を目的としない上演」とは言えないでしょう。しかし、こうしたものを一つ一つ規制するのはどう考えても表現の自由を否定しているとしか思えません。さらに、演奏の音が漏れ伝わってくる、ピアニストの家の隣に飲食店を作って営業することは著作権を侵害しているでしょうか?オーナーの息子が店の奥で弾いているギターを聞くことが目的で客が集まってくるとき、営業を続けるためには著作権者の許可が必要でしょうか?著作権法を厳密に適用すれば、公共の場では無断で鼻歌を歌うことすら著作権者の許諾が必要で、場合によっては逮捕されるということになるわけですが、これは明らかに異常な世の中です。

つまり、コンサートでの著作権ならともかく、飲食店での演奏を著作権法で縛ること自体、難しい問題を抱えていると言うこともできるわけです。実際、日本では多くのジャズバーが莫大な著作権の支払いに耐えられずに、閉鎖に追い込まれているという現実があります。著作権法の大きな目的が「文化の尊重」だということを考えると、何とも言えないところでしょう(*2)

また、営利だということに争いがないとして、著作権侵害となる演奏をしているかどうかの立証責任を店側に持たせるのか、著作権者に持たせるのかも問題です。立証責任が店側にあるとしたら、事実上、表現活動をすることそのものを否定することになってしまうでしょう。最近話題のデサフィナード事件では、まさにこういうことが問題になっているわけです(*3)。

もちろん、著作権者の利益を守ることには価値があります。一方、「表現の自由」を守ることにも価値があり、これも共約不可能な価値の対立です。著作権者の利益という価値の方だけを追求していけば、新しい文化が生まれることすら制限することになる。ところが、著作権という権利が、モノに対する所有権と同列で扱われてしまうと、こういう一番本質的な部分が全く見えなくなってしまうのです。

/////

以上、2つのことを例として説明しましたが、これは、他のさまざまなところに成り立つ問題です。

たとえば、私信に対して絶対的な著作権が成立すると解する判決がありますが(*4)、私信によって相手を罵倒したり、人格を傷つける発言をされた人がいたとして、それを公表してはならないとするなら、相手に対して対抗する手段がなくなることもあります。また、社会的意義のあるような問題についての私信を公表してはいけないとするのは社会正義に反するということもできるでしょう。

また、著作権延長論も問題です。特許権の例を考えても分かるように、知的所有権は、ある期間認められる一方、それ以降は認められないということで、産業が活性化されるものです。これも共約不可能な価値の対立の一つの例で、やみくもに著作権期間を延ばせば、自由な文化、産業の育成が妨げられるのは言うまでもありません。(*5)

本来、文化や知識は社会に共有されることで始めて次の創造に結びつくという性質を持つものです。たしかに、著作者の権利を認めることも必要だとしても、それを際限なく認めると、実質的に新しいものが生み出されることを規制していくことになってしまうのです。これは広く言えば、文化的共有地(コモンズ)を守るべきだという価値と、著作権の価値が対立するという問題として理解されます。こうした文化的共有地も著作権にからむ「共約不可能な価値」の一つと言えるでしょう。(*6)

いずれにせよ、あたかもモノと同じように著作権をとらえてしまうと、そもそも著作権を尊重することに、あるいは尊重しないことにどういう価値があるのかという、問題の本質を見失ってしまい、おかしな判断を導いてしまうのです。著作権は、「著作権者の利益の尊重」という価値とそれと共約不可能な多数の価値との間で成り立っていると解するべきであって、通常の所有権と同じような絶対的な権利として解するべきではありません。ここまでに論じてきたさまざまな問題も、全てことのことから理解することができるでしょう。

さらに大きな視点で言うと、一般に、あらゆる権利は、こうした価値の対立の中で成立しているものです。そして、法律や判決は、こうした価値の対立の中で、あるものを尊重することとして理解されるべきなのです(*7)

最近では、知的財産戦略本部によって、今までの硬直的な著作権法の運用が若干改善されるような気配がある(*8)一方、デサフィナード事件などを見ると、法律に関わる人たちが、こうしたことをあまり理解していないように思えることがあります。著作権を絶対的な権利と考えてしまうと、行きつくところは、一部のメディア企業が全てを管理するような超管理社会であり、音楽を演奏することすら、一つ一つ規制されないといけなくなるのです。こうなっては、新たな知的財産は生み出されるどころか、かえってそれが妨げられることになるわけです。(*9)

一方、著作権の横暴に反対する人たちも、著作権にまつわる問題が本質的に「価値の対立」に起因する問題だということに十分に知っているとは思えません。「価値の対立」を理解するとは、相手の立場を理解するということでもあり、議論を有意義なものにしていくために必須の条件なのです。ところが、今までこういった議論はなされることはほとんどありませんでした。

世界から音楽や文化を撲滅させないためにも、多くの人にこうした著作権の本質を知ってもらい、より良い形で著作権が運用されることを願うものです。

*1
著作権法全文
http://www.cric.or.jp/db/article/a1.html

*2
http://news.braina.com/2007/0123/enter_20070123_002____.html
http://oka1in.at.webry.info/200701/article_2.html

わずか33席のバーで音楽を演奏するのに、840万円の著作権使用料、ついでに逮捕というのは、尋常ではないと思います。法律を守らなかった経営者を責める前に、法律そのものを見直す時期に来ているのではないでしょうか。背景には、JASRACが天下りによる巨大利権団体であるために、どうすることもできないという現状があるようです。

*3
デサフィナード事件
http://www.j-cast.com/2007/02/03005314.html
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/911139.html
http://tatuya215.exblog.jp/4664061/

追記:
これについてはこのブログでも独立した記事として取り上げました。

重要 君のくちびるを逮捕!―デサフィナード事件を考える
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_c559.html

*4
私信無断掲載事件
平成8年4月26日
 高松高裁 平成5年(ネ)第402号 損害賠償請求控訴、同付帯控訴事件
http://www.translan.com/jucc/precedent-1996-04-26.html

*5
関連記事
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20070121/117338/

こういった問題に対して、知的財産戦略本部が対応できるとは、到底思えません。

*6
文化的共有地の重要性そのものは、「アンチコモンズの悲劇」として広く知られていることです。ただし、「共約不可能な価値の対立」としてとらえる議論は少なくとも日本では紹介されていないと思います。この記事は、文化的共有地の問題を含め、著作権について広く論じるものです。

アンチコモンズの悲劇?-知識の私有化の光と影-
http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0016.html
"Free Culture" Lawrence Lessig(日本語字幕付き)
http://ittousai.org/lessig/lessig_free_culture_japanese_1.1.swf

*7
これは情報学の基本的な主張の一つで、私が今回の記事で一番主張したいのも、このことです。このブログでは、以下の記事で大まかなことを書かせてもらいました。

規範とは何か
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_ed02.html

*8
知的財産戦略本部
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/
新聞記事
http://news.braina.com/2007/0123/move_20070123_001____.html
http://www.ipnext.jp/news/index.php?id=716

*9
著作権と財産権の関係についていくつかのブログで取り上げられているようです。最初に書いたように、この記事は法律についてのものではないので、著作権は財産権かという問題については中立です。しかし、法律についての解釈論以前に、著作権と他の財産権を区別しないといけないのは大前提としないといけないでしょう。その上で、著作権を特殊な財産権とした方が良いのか、そもそも財産権と別にした方が議論されるべきだと思います。

著作権は財産権ではない/池田信夫 blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/d/20061218
著作権は財産権である/ナガブロ
http://nagablo.seesaa.net/article/29933684.html

○関連ブログ・サイト

日本でGoogleやYouTubeのようなベンチャービジネスが生まれない訳/株式日記と経済展望
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/m/20061218
著作権は財産権ではない/池田信夫 blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/d/20061218
"Free Culture" Lawrence Lessig(日本語字幕付き)←非常におすすめ
http://ittousai.org/lessig/lessig_free_culture_japanese_1.1.swf

○関連記事

この記事で一番伝えたかった、「価値基準の対立」ということについては、簡単ではありますが、以下の記事で書いています。

重要 規範とは何か
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_ed02.html

さらに、政治や政策決定の場で、価値の対立として問題を理解することの意味については、以下の記事で書かせてもらっています。

重要 物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

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コメント

トラックバック、ありがとうございました。私のブログをかなり読み込んでいただいたようで、恐縮です。
私自身、JASRAC問題を2年以上追及してきたものの、少々マンネリ化していると感じていたところ。貴殿のブログを拝読し、著作権法に関する頭の整理に役立ちました。
JASRACについては、より柔軟な発想の著作権管理組織を新たに立ち上げるか、著作権法の管轄を文科省から経産省に移すとかしないと駄目かと思っていますが、さらに多方面から活発に論議されることを望んでいます。
いつでもご自由にお立ち寄りください。

投稿: おかりん | 2007/02/07 0:14:48

良くまとまっている記事だったので、こちらでも取り上げさせてもらいました。政治レベルでの解決と同時に、市民レベルの運動としては、JASRAC非管理楽曲を増やしていくことが大事ではないかと思っています。特にJAZZなどでは、海外のアーティストにも呼びかけて、JASRACに委託しない曲を増やしていく。そうすれば、いつか、日本に音楽が戻ってくる日も来るのではないかと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2007/02/07 16:10:16

 トラックバックをいただきありがとうございます。書き込んでいただいたコメントにも返答いたしましたが、こちらにも書き込ませていただきます。内容は同じです。

 著作権と所有権を区別するにあたって、「通常の所有権の場合、それに対する絶対的な権利があるとして、問題が起きることはほとんどありません。」と書いてありますが、ぼくはそれはちょっと違うのではないかと思います。

 例えば土地所有権について言えば、民法上の相隣関係(209条以下)という規定があります。これは一定の場合に所有権が制限されることを定めた規定です。また都市計画法や建築基準法には都市計画という政策目的を実現するための制約も定められています。動産の所有権についても例えば文化財保護法などによって制限が課されることがありますね。

 これらの制約は二種類に分類することができます。相隣関係のような権利相互の調整を目的とした内在的制約と、都市計画法上の制約のような政策目的を実現するための外在的制約です。
 内在的制約は、何も財産権についてだけでなく、人格権にも及びます。人格権に対する制約は「受忍限度」という用語で説明されます。これは憲法12条および13条の「公共の福祉」という文言を根拠にした制約です。
 さらに財産権については外在的制約も許されます。これは憲法29条2項の「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」という規定に根拠があります。財産権については権利相互の調整規定のほか、さまざまな政策を実現するために積極的に制約を課すことも許されるというわけです。人格権に対しては、このような政策実現を目的にした外在的制約は及ばず、内在的制約のみが課されています。

 著作権が財産権である以上、著作権に対しては内在的制約も外在的制約も許されます。しかし著作権法上の制約は、所有権や知る権利などとの調整を図った内在的制約がほとんどであるような気がなんとなくします。
 憲法29条1項は「財産権は、これを侵してはならない。」として既得権を保護していますから、合理的な理由なく既存の著作権を剥奪すると、この規定に反することになります。

 要するに、ぼくの著作権に関する考え方は情報学ブログさまと同じなのですが、所有権に対する考え方がちょっと違うわけです。これはぼくの理解の範囲では法学的にも一般的な考え方なのではないかと思います。

投稿: ナガブロ | 2007/02/17 17:24:26

コメントありがとうございます。
実は言われていることそのものについては、
全面的におっしゃるとおりだと思います。
自分のブログの本文にも以下のように書いています。

> 一般に、あらゆる権利は、
> こうした価値の対立の中で成立しているものです。
> そして、法律や判決は、こうした価値の対立の中で、
> あるものを尊重することとして理解されるべきなのです(*7)

そして上の注7の中身でも書いたように、
自分があの記事で一番言いたいのはこのことだったのです。
たしかに、

> 通常の所有権の場合、それに対する絶対的な権利があるとして、
> 問題が起きることはほとんどありません。

と書きましたが、
あくまで程度や比較の問題とも言えます。
著作権が他の財産権と違うという主張は、
大きく言えば、著作権に一般的に財産権に対して考えられている見方、
「明文化された権利があって、それを厳密に適用すれば問題ない」
を適用することの問題を指摘するものです。

そういう意味で、ナガブロさんと私が違うのは、
この点ではなく、次の2点です。
ただし、一つ目は二つ目の説明のための前提として
取り上げるものです。

一つ目は以下の文の解釈です。

> 憲法29条1項は「財産権は、これを侵してはならない。」として
> 既得権を保護していますから、
> 合理的な理由なく既存の著作権を剥奪すると、
> この規定に反することになります。

記述そのものについて、争うつもりはありません。

ただし、「合理的な理由」「剥奪」という表現が、
どこまで当てはまるのかは、
人によって解釈が違うところで、
相変わらず「価値の対立」の問題だと思います。
このことの例として、
営業している店で口笛を吹く権利すら、
明文化されていないわけで、
それを絶対的なものとして
解して良いのかというような話を書いたわけです。

二つ目は、このことから導かれる、
制度上の問題と運用上の問題の区別ということです。
おそらく制度として著作権をどうしていくかという点に関しては、
ナガブロさんと自分でそれほど対立はないのではないかと思います。
ここには他の財産権と同じような価値の対立の構造があります。
一方、著作権法の運用ということについては考え方が違うのでしょう。
ナガブロさんは、ある法律があったときに、
そこで規定されているのは「合理的な理由による既存の権利」と解釈でき、
運用上はひたすらそれにしたがっていれば
問題ないとお考えなのだと思います。
しかし、すぐ前に書いたような理由でこれは正しくありません。
そしてこの点でやはり、
都市計画法や建築基準法で問題にされるような財産権の問題と、
「一応」区別する必要があると言っているわけです。

ただ、もちろんこの区別も微妙で、
都市計画法や建築基準法の運用上も、
似たような対立が必ずあるはずです
(詳しくは知りませんが理論上そうだと思っています)。
しかし、それがそんなに問題になっていないのなら、
問題の性質としては区別することを主張するのは間違いではないでしょう。
要するに、権利をめぐる価値の対立について、
運用上特に考慮しないといけない。
それが著作権だという話です。
そしてその意味で、「他の財産権と区別するべき」と言っているだけです。

繰り返しになりますが、
この区別は、世論や政策をミスリーディンブすることを防ぐという、
かなり現実的な理由によるもので、
単に法学上の問題ではありません。
池田信夫氏の議論についても、
この点から理解されるべきではないかと思います。
ナガブロさんの批判が理論的に間違っていると言っているわけではなく、
理論的には正しくても(自分はこれについては専門外なので保留)、
本質を理解しない揚げ足取りではないかと言っているだけです。

投稿: 情報学ブログ | 2007/02/17 21:08:54

池田信夫氏の記事、それに対するナガブロさんの批判的な記事、そしてこの情報学ブログさんの記事をあわせて読ませていただきました。せっかくなので足跡をペタペタつけさせてもらいます(笑)。

法学を勉強する者は一般的に、ナガブロさんのように考えているんだろうな、という印象をもちました。法解釈学的、法教義学的でドグマティックな主張としてはナガブロさんの主張が正当でしょう。法学を勉強している者にとって、およそ「著作権が財産権ではない」という言明は理解不能です。法制度の内的視点をとる限り、この言明は誤りということになりましょう。

しかし、法と経済学アプローチなど、法の内的視点ではなく法の外的視点から法制度を観察する論者もいます。この場合、「経済学」や「情報学」という「法学」とは異なる視点、理論から提示される理屈に従って「著作権は財産権であるか」という問題が処理されます。

つまり法の内的視点から主張されるナガブロさんと経済学という法の外的視点から主張される池田氏の主張は基本的に「すれ違い」であって、そもそも議論になっていないというべきでしょう。

もちろんこの点につき、法哲学上は様々な対立があります。
大きく分けて、

(1)法の内的視点しか認めない見解(ロナルド・ドゥオーキン等)
(2)法の外的視点しか認めない見解(法と経済学アプローチ、日本では宇佐美誠教授等)
(3)法の内的視点・外的視点を双方とも認める見解(H・L・Aハート、東大の井上達夫教授、京大の田中成明教授等)

があります。
仮に(1)の見解を採用すればナガブロさんの見解のみが正しいことになるでしょう。
逆に(2)の見解を採用すれば池田氏が正しいことになるでしょう。
(3)を採用すれば、両者の研究は排他的ではなく、「すれ違い」ということになるでしょう。

ただ外的視点を採用する見解で注意すべき点は、
一見すると、外的視点からの主張に見えるが、内的視点の主張を行っている場合があることです。

たとえば、R・ポズナーなどの規範的法と経済学アプローチは、経済学の外的視点から事実的な立法論、政策論を述べるに留まらず、法解釈学・法実践的な「こう解釈すべきだ」という議論まで伴っています。この場合、内的視点に基づく議論を行っているのであって、「私は法律の専門家ではないから」とか言って言い逃れすることは不適当ということになるでしょう。単純に「経済学の立場からするとこうなんだからこういう立法をすべきだ、こういう政策をとるべきだ」というなら良いですが、それを超えて「この条文をこのように解釈していくべきだ」と主張する場合には、ナガブロさんの主張するようなドグマティックな理論との対決は避けられないというべきではないしょうか。

投稿: バベル | 2007/04/19 23:35:20

コメントありがとうございます。
また、法律について素人である自分の書いたつたない記事を
ブログでまで紹介していただきましてありがとうございました。

特に、内的視点と外的視点ということについては
おっしゃる通りだと思います。
ナガブロさんとのやりとりについても、
自分が言っていたのは、要するに「すれ違っている」という一点なので、
バベルさんの論点とも非常に近いのではないかと思います。
話を整理していただいてありがとうございました。

ちなみに、1つ補足すると、個人的には、
今回の議論は、用語法の問題が大きかったのはないかと思います。

法学や経済学の場合、分野の中で用語法が確立されている面が大きいので、
用語法の問題に排他的になりがちだと思うのですが、
情報学のように、「言葉の定義が人によって違う」という分野だと、
「相手の言う言葉の定義は何か」という考えが先に来てしまうのです。

「財産権」というのは、本来、純粋に法律用語であって、
その中で確立した定義があるのでしょう。
だから、用語法の間違いは、間違いとして重要だと思います。
そして、その意味でナガブロさんの主張は完全に正しいわけで、
池田信夫氏の方が間違いだと言って問題ないでしょう。

ただ、池田信夫氏は、「財産権」という言葉を、
本来の法律用語とは違う意味で使っていたと思うのです。
そして、このために、ナガブロさんの批判は、論理的には正しくても、
池田信夫氏の主張の「趣旨」に対しては、
すれ違った議論になっていたということが言えるでしょう。
私が、この問題に口を出したのは、
ナガブロさんが、そのことをきちんと指摘しないために
何も知らない一般の人を
間違った方向に誘導すると思ったからです。

専門的な意味で正しい主張でも、社会的に全く逆の影響を与えてしまう。
多少なりとも専門的な内容の記事をブログに書いている私たちは、
こういうことに関して、
十分に気遣わないといけないのではないかと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2007/04/23 16:27:42

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