権利の条件に義務があるって本当ですか?

経済・政治・国際 | 2007/02/28

権利の条件に義務があるというのは正しい場合もありますが、これが成り立たない権利があり、それが「人権」と言われているものです。ウソだと思うなら、憲法を見ればいいでしょう。小学校で習う超基本事項ですが、最近の伊吹文部科学大臣の「人権メタボリック症候群」発言にまつわる議論を聞いていると、どうもこのことが誤解されているような気がするのです。

もちろん、「権利には義務がつきもの」という状況があるのは分かります。しかし、これは少なくとも「人権」についてそのまま当てはめるのは「人権」の意味を誤解しているとしか言いようがありません。

(1) 権利と義務

権利と義務は対になる概念です。なぜなら、ある人に権利があるということは、他の人にはそれを守る義務があるということだからです。しかし、これだけだと、権利があることは、そのまま義務があるということを意味しません。ある人に権利があることが示すのは、あくまで<他の人>にそれを守る義務があるというだけなのです。

(2) 契約における権利と義務

ところが、契約においてはこの状況が変わります。契約というのは、それぞれ結ぶのも結ばないのも自由です。したがって、契約を結ぶときは、自分がある権利を持つと同時に、相手が別の権利を与えるという形にしないといけません。相手に権利を与えるというのは、自分が義務を負うということですから、別の言い方をすれば、契約の時には、権利と義務が交換条件になります。

一応、このあたりのことは常識的に考えれば分かると思います。

(3) 社会契約説

それなら、個人の国家によって保証される権利はどうやって考えれば良いのだろうか…?

ということで、17-18世紀くらいに出てきたのが社会契約説という考え方です。大きく言えば、人間は、国家との契約を結び、国家に対して義務を果たす一方、国家に対して権利を持つという考え方です。

(4) 契約の前提としての人権

しかし、人と人の間の契約だったとしても、人と国家の間の契約だったとしても、契約を結ぶ前提となる権利は初めから備わっているとしないと、そもそもこういった話は成り立ちません。そこで、「自由」「平等」と言った権利は、人間に本来備わる絶対的なものと解釈されるわけです。

これが、社会契約説の出発点と言われるホッブズの言う自然権です。つまり、自然権(人権)は契約の前提となる権利である以上、義務とは無関係の権利です。

(5) 委譲か信託か

ホッブズの場合、こうした自然権は、国家との契約によって国家に「委譲」されると考えたのですが、ロックはさらに進み、単に「信託」されているのに過ぎないと考えたわけです。これは、ホッブズは絶対君主制を考えたのに対し、ロックは間接民主制を考えていたという違いによるものです。

自然権(人権)は国家に委譲することすらできない、絶対的な権利だというところに、近代国家の基本的な考え方があると言えるでしょう。

この辺りの話は、普通に高校の倫理の教科書にも書いてあるし、法律とかやってれば誰でも知ってることでしょう。

(6) 日本国憲法と基本的人権

こうした自然権(人権)の考え方は、別に遠い国ヨーロッパのお話ではありません。これは、当然、日本国憲法にも表れていて、それが小学校の社会科で習う「基本的人権」の考え方だと言えるでしょう。

これは以下の条文を見れば明らかです。

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第97条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

ただし、日本国憲法は、もう少し複雑で、以下のような規定もあります。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

ただし、12条と11条を比べて読めば分かるように、基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」であるのを大前提として、「公共の福祉」のために利用する責任が規定されています。そして、97条でダメ押しのようにその不可侵性が繰り返されています。

つまり、「公共の福祉」のために基本的人権が制限されることは合っても、人権そのものの「不可侵」は変わらないということです。たとえば「あなたは公共の福祉になっていないから、あなたには基本的人権はない」ということは言えないでしょう。もしこのような主張が通るのなら、基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」ではなくなり、この条文ができた歴史的経緯とも合わないことになるからです。

もちろん、憲法には、国民の義務の規定もあるわけですが、いずれにせよ、「人権には義務がつきもの」というような軽率なものではなく、あくまで「人権」と「義務」は別のものとして考えなければいけないわけです。

(7) それでも義務あってこその権利!

いや、それでも、やはり実生活の上では、権利には義務がつきもの。義務を果たさないで権利だけ主張する若者はけしからんとか言う人がいるかもしれません。

ただ、その場合、基本的人権とは全く別のことが問題にされているわけです。たとえば、学校と生徒、企業と従業員と言った関係は、基本的に契約関係なのだから、「権利には義務がつきもの」と言うのは間違いではありません。また、法律で定められる個別の権利行使の方法(車を運転することなど)には、義務が伴うこともあるわけです。

しかし、これは基本的人権とは全然違う問題であり、こうした事例をもとに、「人権にも義務がつきもの」というと、そもそも何のために人権の思想ができてきたのか分からなくなるのです。学校や会社での権利を説明するのに、人権思想など必要なく、単なる契約だけで十分です。また、「車を運転する権利」は人権ではなく、単に権利と言えば言い訳です。

単純に言えば、「義務がつきもの」ではない権利が人権です。そうである以上「人権には義務がつきもの」という主張はどう考えても正しくないのです。

(8) 美しい国を目指すあなたへ

いずれにせよ、このように考えると、人権の話をしているときに、「権利には義務がつきもの」というのが、どれだけおかしな話なのか良く分かると思います。「人権には義務がつきもの」というとすると、それは論理的に「人権不要論」です。通常の権利だけで十分という考え方になります。

ただ、安倍首相などは、「それは低レベルな西洋の思想であって、占領軍に押しつけられた憲法こそ変えないといけない。美しい日本は西洋と違うんだ!!」というかもしれません。そこで、そういう人にダメ押しで説明させてもらいます。

a. 義務を果たせない人

障害者論で良く問題になってきた話ですが、重度な障害者、痴呆など、「社会に対して義務を果たせない人」には権利はあるのでしょうか。「権利には義務がつきもの」というのなら、彼らは虐殺されることになります。

b 自然権思想はなぜ出てきたか

これは言うまでもなく、国家権力の横暴によって、国民の権利が脅かされるという当時のヨーロッパの状況で、そのお反省に立って作られたものです。

自然権、あるいは基本的人権に何らの条件を課すようなことをした場合、国家権力は、それをきっかけにして人権侵害を始める。そして、人権は骨抜きにされてしまうというというのは人類の歴史でした。

たとえば、国家権力が報道の自由の制限するような権利を持った場合、自らの都合のように報道統制を行い、国民の自由が守られなくなる。また、警察権力に対する自由を持たなくなれば、拷問や政治犯の拘留が行われ、国民の自由が守られなくなる。私がこのブログの記事をかけるのも、こういった「人権」が守られているからです。実際、政府批判をしたら逮捕されるような国だって世界中にたくさんあるのです。安倍首相を支持する人たちが良く中傷のダシに使う、「中国」や「北朝鮮」「韓国」はまさにそういう国でしょう。

「人権には義務がつきもの」などと言っていると、そういうふうになってしまう。これは、中国や北朝鮮だけではなく、世界の歴史が物語る真実です。そこで、こうした歴史認識に立った上で、「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」という憲法の条文があるわけです。

「美しい国日本」は特別で、人権などなくても権力の横暴が起きない素晴らしい国なのでしょうか?

「日本の伝統」の名の下なら、こうして人類が積み上げてきた遺産も全て否定して良いのでしょうか?

そういう人に、日本でどれだけ人権侵害が多いかという事実を指摘しても、「大したことない」としか思えないのでしょうから、耳にタコができるような話は止めておきます。その代わり、たしかに、日本は世界でも特別な国で、人権が制限されても「美しい国」になるのかもしれない、それは実際にやって見ないと分からないというところまで譲歩しましょう。ただ、失敗したときのリスクを考えると、恐ろしく危険な思想だということは言えると思います。

(9) 最後に、自分の立場

こんなことを書いておいて何なのですが、自分自身は、普段、こういう「基本的人権」さえ、時には他の価値との対立の中で存在していると解さないといけないことを主張する立場です。たとえば、「生活保護」というとき、どこまでの生活を保障しなければいけないか、医療保険制度をどうすれば良いか、安楽死や脳死臓器移植の問題などを考えるとき、人権の絶対性だけでは解決できないこともあります。

それに対し、今回の記事はそうした問題とは無関係の、人権についてのごくごく基本的なお話だと思います。要するに、本来、自分は「人権」が絶対的なもの、などと言う柄ではなく、むしろ正反対の主張をする立場なのです。今回の記事も、憲法学を専攻している人などに書いてもらった方が、より正確な解釈ができたでしょう。

しかし、そういう立場の自分だからこそ、「人権には義務もつきもの」という発想の危険性は特に感じているわけです。たとえば、高額な治療を受けて、生命を維持する権利が、「支払い」の義務で制限されるという現実はあります。しかし、これはあくまでそうなってしまっているという事実の問題であって、「そうするべき」という価値の問題ではありません。法的、あるいは倫理的な、「治療を受ける権利(この場合は生きる権利)」そのものは義務とは別に存在していると考えないといけないわけです。もし、こういう状況で「人権の条件に義務がある」というのを認めるとすると、「貧乏人は死んだ方がいいので、それに基づく社会制度を作るべき」という許し難い主張も許容することになるでしょう。

人権も決して絶対的なものではなく、あくまで政治のバランスの中で存在しているものです。あると言えばあるし、ないと言えばない。しかし、だからこそ大切にしていかないといけないということも言えるでしょう。

ただし、「人権」を主張する人が、ここで書いたような「人権」の意味を本当に理解しているかというと、それも疑問かもしれません。たとえば、本来「人権」でないものまで、「人権」として「義務をともなわない権利」と主張するのは問題でしょう。また、「人権」が本質的に絶対なものではないからこそ、「不断の努力によつて、これを保持しなければならない」ものだということを忘れると、人権を主張することによってかえって人権を空洞化させることにもつながります。

いずれにせよ、こうした「人権」と「権利」の違いは一般的にはあまり理解されていないわけで、これは、安易に人権を批判する伊吹氏のような「アンチ人権派」、これに対して反発する「人権派」の両方について言えるのではないでしょうか。このために、本来の意味での「人権」が縮小している現状こそ、現代の「人権」にまつわる最大の問題なのかもしれません。

○訂正とお詫び(3/1)

この記事は、もともと、伊吹文部科学大臣が「人権メタボリック症候群」という発言をし、それをフォローするのに「権利には義務がつきもの」という発言がされたことを批判する記事として書いたものです。しかし、後になって、このロジックには飛躍があることに気づきました。というのも、安倍氏や伊吹氏が「権利には義務がつきもの」というとき、「権利」が「人権」であるとは言われていないからです。たとえば、伊吹氏は以下のような主張をすることができ、これは全く正当です。

: 「権利には義務がつきもの」というのは、
: 人権について言っているのではなく、
: あくまで一般的な権利に「義務がつきもの」と
: 主張しているのに過ぎない。
: 伊吹発言の背景にあるのは、
: ある権利が「人権」ではなく、
: 「義務がつきもの」な権利であるにもかかわらず、
: 「人権、人権」と言って、
: 「義務がつきもの」ではない
: 権利であるかのような主張をするという状況。
: こういった状況を問題にするのが、
: 「人権メタボリック症候群」という発言なのだから、
: このフォローに「権利には義務がつきもの」であることを言うのは、
: 間違っていない。

最近の憲法改正の流れを考えても、安倍氏や伊吹氏がここまで考えて発言したかは疑問ですが、上記のような主張ができる以上、「論理的な間違い」というのは正しくなかったと思います。

もともと、本文のほとんどは、「人権には義務がつきもの」という主張を批判するものでしたが、冒頭と末尾のごく一部に、伊吹氏の発言に対する言及がありました。すでに本文からこれらは削除させてもらいましたが、反省の意味を込めて、あらためてここに記すものです。

ちなみに、こういった観点から伊吹氏に対して国会質問したら、非常に有意義な政策論争になるのではないかと思います。今の野党には無理かもしれませんが…。

○参考サイト

社会契約説
http://learning.xrea.jp/%BC%D2%B2%F1%B7%C0%CC%F3%C0%E2.html
基本的人権保障の思想
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jinnkennsisou.htm
憲法学教室
http://www.h2.dion.ne.jp/~g-shoshi/ConstitutionalLaw/kyoushitsu.html
307憲法に民の義務は不要! ―― 憲法と法律の違い
http://botugo.no-blog.jp/asia/2007/02/307__a0f4.html
改憲論をめぐって<1> 憲法観の転換
http://www.ibaraki-np.co.jp/series2/kenpo/page17.htm
日本国憲法
http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM
Wikipedia―権利
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%88%A9
Wikipedia―義務
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%8B%99

○関連サイト

伊吹文科相「人権メタボリック」発言に我が意を得たり
http://d.hatena.ne.jp/bruckner05/20070228/p1
人間らしく生きる権利に対して、いかなる義務を要求するというのか
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070210/1171089018

○関連記事

これに関連して、伊吹発言については以下の記事で扱っています。

伊吹発言の何が問題か/人権メタボリック症候群
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_537d.html

人権についての具体的な問題について、以下の記事で扱いました。

「日の丸・君が代拒否」は内心の自由の問題なのか?―本来の争点は別のところにある
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_30fc.html

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コメント

どうも。
一般的に、権利とは義務の対価である、というような「契約モデル」が通用しているっていうのは、確かにありますよね。
でも、権利っていうのはそもそもは発明物であり、そのことがとくに現われるのが人権だ、という気がします。
その点では完全に同意します。
ただ、人権の無条件性って言うのはけっして自明の所与ではなく、社会的努力を通してつねに維持していかなければならない構築物である、っということも忘れてはいけない気がします。
発明物としての権利については僕も以下の記事で書きました。
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070222#p1

投稿: voleurknkn | 2007/02/28 13:04:22

> 人権の無条件性って言うのはけっして自明の所与ではなく、
> 社会的努力を通してつねに維持していかなければならない構築物である、
> っということも忘れてはいけない気がします。

最後まで読んでもらえれば分かるけど、
まさにそういうふうに思っています。

ここで言っているのは、人権という理念
(維持していくべき構築物)があるとして、
とりあえずその理念の意味は最低限理解しないといけないということ。
そして、人権を「契約モデル」で理解するのは、
そもそも理念としての意味を理解していないということです。

投稿: 情報学ブログ | 2007/02/28 14:06:59

コメント有難うございました。本当に良く法律学を勉強されていますね。無学な私と書かれてありますが、あなた様のご謙遜ですよ。失礼と存じ上げますが、「碩学の法学研究者」と拝察致しました。私は、法律論より教育の現実を考えました。書き足りないところが多かったと反省しています。今後とも御意見、御感想、コメントをお寄せ下さいませ。何卒よろしくお願い申し上げます

投稿: 寺田隆夫 | 2007/03/02 0:25:27

ありがとうございます。

いや、専門は情報学なんですけど^^;

ご批判をいただいて訂正したりしながらも、何とかやらせてもらっているところです。今後とも、よろしくお願いします。

投稿: 情報学ブログ | 2007/03/02 2:56:45

政治家は、「人権には(内在的)制約が伴う」とか「人権は大事だが一方では(生徒などには)義務もある」と本来なら言うべきところを、「人権には義務が伴う」と言ってしまっただけだとおもいますよ。政治家は憲法学の専門家ではありませんし、制約というよりも、義務という言い方をしたほうが、大衆には届きやすいでしょうから、とっさに選んだ表現でしょう。まあ、政治家たるもの、そういう言葉の選び方でいいのか、という問題はありますが。
つまり、あなたの議論は、考えすぎて的外れだとおもいます。

投稿: お昼寝好き | 2007/03/15 22:43:29

お昼寝好きさん
コメントありがとうございます。

> 大衆には届きやすいでしょうから、とっさに選んだ表現でしょう。
> まあ、政治家たるもの、そういう言葉の選び方でいいのか、
> という問題はありますが。

おっしゃる通りだと思いますよ。
本文もその趣旨で書いたと思います。
この記事は、伊吹発言を失言などとして
批判するようなものではなく、
もっと違う意図で書いたものです。

ただ、この直後の「つまり」の前後が
「つまり」でつながっているのかどうかは疑問です。

> 考えすぎて的外れだとおもいます。

これは考えすぎではなく、
人権にまつわる非常に重要な問題と関係していると思います。
本文の最後にも書いたように、
人権を主張する人がこうした人権の意味を分かっていない一方、
それを批判する人もその内実を理解していないわけで、
そのために、人権ではないものが尊重される一方、
本来守られるべき人権がどんどん縮小して行っているわけですから。

投稿: 情報学ブログ | 2007/03/16 8:59:44

堀江被告が実刑判決をうけましたね。

昨日、私のまわりには、
「あいつは詐欺をしたんだから、実刑も当然だ」というAさんと、
「もっとひどい詐欺をしているやつはいっぱいいるじゃないか。なのに、実刑はおもすぎる」と言うBさんとがいました。

もちろんご承知のように、堀江被告の犯したとされたのは、刑法の詐欺罪ではなく証券取引法違反の罪です。AさんBさんに、そのことをきちんと指摘すれば、いちおう納得はしてもらえるでしょう。でもそういう指摘は、AさんBさんが本当に考えていることの的を射抜いているといえるでしょうか?

堀江非難のAさんも、堀江擁護のBさんも、「詐欺」の刑法学的意味も内実も理解していないのは確かですが、そのことを指摘したところで、ちょっとした豆知識とAさんBさんに扱われるだけだとおもいますよ。

正しいことばをつかわなければ、精密な議論ができないのは当然ですが、そのためにプロがいます。今回の「人権」のケースでは、憲法学のプロでない政治家が同じくプロでない大衆に語りかけたという事情がまずあり、それに対して知的に同レベルの人たちが反発したという事情があった、と理解していますが、そのことを批評するにあたって、用語の間違いを指摘するだけでは、豆知識の域をでていないとわたしはおもいます。

投稿: お昼寝好き | 2007/03/17 12:30:32

お書きになっていることは、全面的にその通りだと思います。
おっしゃる通り、何が何でも正しい言葉遣いをしなければ
いけないかというと、そういうわけではないと思います。
また、単に用語の間違いを指摘するだけだったら、
堀江さんについての世間話の例のように、
「豆知識」の例を出ないかもしれません。

ただ、私が今回の記事で
用語の間違いを指摘しているだけではないということは、
すぐ上のコメントにも書いたし、
本文の最後あたりでも触れています。

したがって、おっしゃっていることそのものはもっともですが、
そのご批判を、私の記事に当てはめることはできません。
どこか他のブログに書き込むべきコメントを
間違ってこちらに書き込まれたのではないかと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2007/03/17 15:05:02

>>ただ、私が今回の記事で
用語の間違いを指摘しているだけではないということは、
すぐ上のコメントにも書いたし、
本文の最後あたりでも触れています。

いったいどこのことなのか、具体的に
教えてくださいませ。

投稿: お昼寝好き | 2007/03/17 17:53:37

 訂正文の内容がなんだか疑問です。

 そもそも一般的な権利に「義務がつきもの」とはいえないのではないでしょうか。いや、権利者の裏側には義務者がいるという意味においては「義務がつきもの」というのは真であるわけですが、権利者が権利行使の前提として義務を負っているという状況はほとんどないでしょう。双務契約くらいじゃないでしょうか。しかし双務契約によって生じた権利あるいは義務を人権団体が「人権、人権」というはずもありません。双務契約によって生じた権利義務というのは、そもそも自分で契約しないと生じない権利であり義務なわけですし。

 人権団体が主張する権利は国家に対してはやはり人権そのものでしょう。契約に基づいて主張しているはずもありません。
 また個人に対してはたとえば不法行為に基づく損害賠償請求権とかになるのではないでしょうか。これも双務契約と違って義務を負うことなく主張できます。

投稿: ナガブロ | 2007/03/17 20:13:44

> ナガブロさん

コメントありがとうございます。

これに関してナガブロさんの議論するほど知識がないし、
基本的におっしゃるとおりだと思います。

ただ、そのあたりは前提にした上で、
それについて「触れない」という方針で、
書いたのが今回の記事だと思っていただければと思います。

要するに、「権利には義務がつきもの」と感覚的に言う人がいて、
それはとりあえず認めてあげないと、
「実感と合わない」ということで、
聞き入れてもらえなくなるでしょう。
だから、そういうふうに見える状況はたしかにあると言っているだけで、
「権利には義務がつきもの」というのを一般論として
肯定しているわけではないのです。
本来はそれについても細かく議論しないといけないのでしょうが、
譲歩として「触れない」という方針を取っているわけなのです。

その上で、「人権の条件にも義務がある」というのは、
「人権否定論」であり、たとえラフな表現としてでも
問題があるということを、
最低限のラインとして書いたつもりです。

そういう意味では、「訂正」も過剰反応で、
論理的にはもとのままで押し通しても良かったと思っています。
ただ、「最低ライン」として議論の説得力を担保するために、
ぎりぎりまで譲歩したわけなのです。

伊吹発言との関連における、この記事の主眼は、
「権利には義務がつきもの」という見方を、
そのように考えている人が分かるような形で、
相対することとも言えます。
ただ、私はこれについて専門ではないため、
法学的に精緻な議論をあきらめる代わりに、
最大限譲歩しながら、
最低ラインとして書いたとも言えます。

法律や倫理の文脈に限らなければ、
「権利には義務がつきもの」と思われる状況はたくさんあるわけですが、
いったいこれがどうしてなのか。
それを法律の問題として、
あるいは倫理の問題としてどうとらえていくか。
実はこれはかなり深い問題で、
きちんと解決されていないのではないでしょうか。
少なくとも倫理の問題としては、議論が錯綜しています。
そしてだからこそ「触れない」方針を取った面もあったわけです。

正直言って、ナガブロさんが、
「権利には義務がつきもの」という実感と法理との関係を、
どうお考えになっているのか、
教えを乞いたい気持ちです。

投稿: 情報学ブログ | 2007/03/18 3:15:52

 まず首相の発言についてアムネスティ・インターナショナルは次のような抗議文を送付しています。

『「権利に義務がつきもの」という考えはその通りです。しかし、市民が持つ権利とセットになっている義務を負っているのは、国家、政府です。市民の権利を実現するための義務を、国家、政府が果たさなければならないのです。それが「権利には義務がつきもの」の意味であり、国際的な人権基準の基本的な考えです。その責任当事者である総理大臣と閣僚が、「権利には義務がつきもの、そのためには規律が必要」と述べて市民の規律重視を打ち出すという姿勢は、自らの責任を放棄し、市民の権利を無視する態度に他なりません。』

 これはそうだろうな、と思います。ひょっとしたら、元々このような意味で言われていたのが、誤用されだしたのかもしれません。

 あるいは、「権利に義務がつきもの」ではなく「特権には義務が伴う」ということでしたら、それほど違和感はありません。いわゆるノブリス・オブリージュ的な発想です。たとえば郵便事業の独占を許されている日本郵政公社は、ユニバーサルサービスという義務を負っています。これは独占という特権に義務が伴っているケースと考えられるかもしれません。

 「権限には義務が伴う」ということもいえるでしょう。警察権や刑罰権などの国民の人権を制約する強大な権限を与えられた国家は、国民の権利を保護する義務を課されています。

 双務契約によって得た権利というのも、義務を負うことによって得た特別の権利だとも考えられますから、この面から権利と義務をひもづけることが正当化されるのかもしれません。

 以上のような特権に対して、通常の権利、たとえば所有権だとか、権利を侵害されたときの損害賠償請求権、片務契約によって得た権利などには、義務を伴いません。自由権、社会権あるいは選挙権などの権利も同様です。

 逆に義務の方からみてみるのもいいかもしれません。納税、教育、勤労という憲法上の三大義務にしても、その他のいろいろな義務にしても、違反した場合に権利が行使できなくなるというのはほとんどなくて、単に罰が課されるのみです。

 情報学ブログさまは『「権利には義務がつきもの」と思われる状況はたくさんある』とおっしゃいますが、「権利には義務がつきもの」という発言があった場合に、一般に受け取る側がどのような具体的な権利をイメージして、どういう権利にどういう義務がつきものだから、これは真であると認めるのかよくわかりません。抽象的な概念を持ち出されて、なんか聞いたことがあるから真のような気がするということで、無批判に受け入れてしまっているのではないでしょうか。

 あまり自信はありませんが、こんなふうに思います。

投稿: ナガブロ | 2007/03/19 5:26:43

基本的にナガブロさんの言うとおりだと思うのですが、
お話をうかがっていると、
正論が全く通らない、恐ろしい世の中になっているということに、
無神経過ぎるのではないかと思います。
アムネスティにしても正論だと思いますが、
正論の方がほとんど取り上げられていなくて、
せいぜい「表現の問題」という程度に軽く考えている人が大部分でしょう。

最近、政治的に言われるような、
「権利には義務がつきもの」という状況の解釈がおかしいのは
重々承知しているつもりです。

たとえば、ライブドアの堀江さん。
自民党の人が、「権利には義務がつきものだけど規律が…」
って、言ってますよ本当に。
誰だよそういう政策を進めてきたのはって言いたいところだけど、
それに対して誰も批判しない。
あと、「同和問題」「ホームレスを公園から排除」にしても、
どこをどう間違えば、「権利には義務がつきもの」になるのか、
さっぱり、分からないわけですが、当たり前のように言われています。

堀江さんなんかの場合、新興企業に対する反発を、
それを進めてきた自民党が経済政策の不満に対する
エスケープゴートにしようとしているのでしょう。
同和問題にはいわゆるエセ同和とか恐喝まがいの話があるし、
ホームレスにしても「汚い」という感覚があるわけです。
だから、理屈なんか通らない。
本来であれば、マスコミにしても野党にしても、
きちんと追求しないといけないところなのに、
それさえないのが今の状況なわけです。

このまま行けば、世論に押し切られて
法律の理論だって全部変わってしまうかもしれませんよ。
憲法学の教科書に「権利には義務がつきもの」なんて書かれる
恐ろしい時代になってしまう。
今、そういう現実ではないでしょうか?

こういう状況で何を発言すれば良いか。
そういう観点で書いているわけなのに、
「正論」で反発してどうするんですか。
おっしゃることはもっともですが、
そう思うのであれば、
もっと説得力のあるものをご自分のブログに書いてください。
情報学ブログの読者の多くが読んで、より納得するような記事であれば、
リンクで紹介したり、もし許可があれば転載させていただりするだけです。

////

ちなみに、本文にも書きましたが、
「権利には義務がつきもの」という感覚は、
一つは、企業や学校のように本来的に「契約」がベースになっているものを
問題にしているという側面があり、
この場合は理屈の上では「権利には義務がつきもの」という状況はあるでしょう。
ナガブロさんは「双務契約」と言いますが、
基本的に社会の多くの営みは理屈の上で「双務契約」なのだから、
理屈の上では間違いではないと思います。

ただ、実際に仕事をしないと給料だけもらおうとしている人が多いかと言ったら
そんな話は聞いたことがないでしょう。
実際には、もっと日常的なものが前提になっているのだと思います。
たとえば、「働かないのに家にかじりついて何してるの」とか
「金儲けばっかりして社会に貢献しない」とか言う話でしょう。
だから、法的な「権利」や「義務」の話とは別なんです。
そんなもので、法的な「権利」「義務」さらには、
「人権」まで否定されたらたまったものじゃないわけですが…。

ただ、こういう日常的な感覚が全く間違いかというとそうでもないと思うのです。
というのも、社会の規範は成り立ちとしては互酬的だからです。
要するに一対一の関係で、
「お前にこうしてやるから、俺にこうしてくれよ」っていう話。
それがもとになって広い意味での「規範」が生まれ、
それが制度化されて「法」というのが生まれてきたわけでしょう。

近代の法制度はこういう日常的な規範を否定するところから生まれているので、
ナガブロさんからすると、
「権利には義務がつきもの」は理解不能なのかもしれません。
しかし、感覚としてそういうのがあること自体は仕方ないし、
それを否定することは多くの社会関係を否定することになるでしょう。
社会は法的な権利と義務だけで動いているわけではないからです。

だから、本文では、あえて一般論としての
「権利に義務がつきもの」という主張には
「触れない」という態度を取ったのです。
法的なものと日常的な感覚の違いなどいう、
説明されても良く分からないというのが普通だと思うからです。

法律の専門家を相手に話をするのではなく、
一般的な状況で何かを言うとしたら、
こういったことを前提にしつつ、
何を言えるかを考えていくことが重要ではないでしょうか。
まして、このブログは法律研究についてのブログではありません。
何かを伝えようとするとき、
不要だと思うものについては省いて説明するのは当然のことでしょう。

投稿: 情報学ブログ | 2007/03/19 16:56:36

 長い回答をありがとうございます。
 もちろん法律のブログではないということはわかるのですが、「権利に義務がつきもの」という主張がなされた場合に、主張している人が具体的にどのような権利をイメージしてこういう主張をしているのかという点については明らかにしておく必要があると思います。

「働かないのに家にかじりついて何してるの」
「金儲けばっかりして社会に貢献しない」

 という二点についてお書きになっていますが、これは確かに権利とも義務とも関係ありません。しかし「権利には義務がつきもの」という主張の核心部分に迫っていると思います。

 というのは、「働かないのに」という部分と「家にかじりついて」という部分は本質的には無関係なんです。働いていれば家にかじりついていてもいいという意味ではない。これは「働け」あるいは「家にかじりつくな」という主張なんです。

 「金儲けばっかりして社会に貢献しない」というのも同じです。これは「金儲けばかりするな」「社会に貢献しろ」という主張です。

 「権利ばかり主張して義務を果たさない」という批判も、義務を果たせば、権利を主張しても良いという主張ではないような気がします。「権利ばかり主張するな」「義務を果たせ」という主張なんです。

 そういう対応関係を考えていくと、権利には義務がつきものというよりは、「義務には罰がつきもの」なのだと思います。義務を果たさなければ罰を受ける。憲法上の義務だってそうですよね。税金を払わなければ罰を受ける。子どもを学校に通わさなければ罰を受ける。

 双務契約の話がありましたが、双務契約だって、自分の債務の履行と引き替えでなければ、相手から給付を受けられないわけですが、かといって給付を受けないでいいのなら債務を履行しなくてもいいかというと、そうではありません。

 まあ、自分の意見は自分のブログに書けよといわれると、それはそうなんですが、ちょっとテーマが抽象的で大きすぎるのと、情報学ブログさんがどのように考えてこの訂正文をお書きになったのか気になったので、コメント欄で失礼いたしました。

 あまりご迷惑をおかけしてもなんなので、この辺で失礼しようと思います。
 おつきあいいただいて、ありがとうございました。

投稿: ナガブロ | 2007/03/20 6:58:26

情報学ブログさん(以下ブログさん)の、

私が今回の記事で
用語の間違いを指摘しているだけではないということは、
すぐ上のコメントにも書いたし、
本文の最後あたりでも触れています。

というコメントにたいして、

いったいどこのことなのか、具体的に
教えてくださいませ。

と申し上げましたが、お答えいただけず、無視されているようですので、こちらから推測させ

ていただきます。勝手にまとめさせていただきますと、【人権が義務を伴わない権利であるこ

とを理解しないで主張しているような状況は、人権の抑圧につながったり、空洞化につながる

】という主張をなさりたいのではないでしょうか。

そこで、あなたの議論をまとめますと、

1、豆知識の披露
2、そういう豆知識がなく、人権には義務が伴うというような言葉遣いを許していると、人権

の抑圧につながったり、空洞化につながり、日本がたとえば北朝鮮のような国になる

ということになるとおもいます。いちおう、このまとめ方が正しいとして、話をすすめさせて

いただきます。

さて、では、あなたは、あなたの議論が正しいとして、その上で、何をおっしゃりたいのでし

ょうか?

政治家やアムネスティは正しいことばづかいをしろ、と言いたいのですか?しかし、日本は民

主主義国ですから、憲法学のプロでない有権者が、同じくプロでない政治家を国会議員に選び

、多くの大臣はそこから任命されます。ですから大臣のことばは、憲法学的に正確なものとは

限りません。正確なことばでなければ言ってはだめだというなら、大臣は発言できません。ま

た、言論の自由がありますから、そういう大臣や政治家の言葉に対して、だれでも、自由に批

評できます。その批評が、憲法学のプロでない者の批評の場合は、憲法学的に正しい言葉遣い

とは限らないわけです。

それとも、あなたは政治家は人権に対する制約を認めるような発言はしてはならない、と言い

たいのですか?しかし、今回の例でいえば、報道によれば、伊吹文部科学大臣は、教育基本法

の前文に「公共の精神を尊び」という文言が加わったことについて、「日本がこれまで個人の

立場を重視しすぎたため」と感想を述べ、その上で、例の「人権メタボリック症候群」という

発言をしたことになっています。「人権メタボリック症候群」という表現は悪趣味ですが、発

言全体の趣旨は、「個人の立場(=人権)を重視しすぎることなく、公共の精神(=公共の福

祉による人権への内在的制約)も尊重しよう」という、それ自体はまっとうな主張であろうとおもいます。たとえば【いじめをする側の児童に対する出席停止処置】ひとつとっても、児童の教育を受ける権利をどこまで制約できるか、という問題につきあたり、そういう問題に政治家が発言するとしたら、当然、人権に対する制約に言及することになるわけです。

あなたは、
1、豆知識の披露
2、そういう豆知識がなく、人権には義務が伴うというような言葉遣いを許していると、人権

の抑圧につながったり、空洞化につながり、日本がたとえば北朝鮮のような国になる
というのですが、どうして2のようになるのか、2についての掘り下げた議論が、失礼ながら、ないとおもいます。ですから、豆知識ばかりが目立つ結果となっているのです。ホームレスの例や堀江の例などもだされていらっしゃいますが、かれらにどういう人権があるのかきちんと議論されるのであれば、「義務」ということばづかいでなく、「居住の自由に対する内在的制約」「営業の自由に対する内在的制約」という言葉遣いをすべきかとおもいます。

投稿: お昼寝好き | 2007/03/20 9:01:17

上の書き込みの改行が妙になってしまいました。
たいへん申し訳ありません。

投稿: お昼寝好き | 2007/03/20 9:04:16

> これは確かに権利とも義務とも関係ありません。

当然その通りですが、
「法的な」と限定する必要があるでしょう。

> 本質的には無関係なんです。

これも同じです。
法律の観点からは関係を同定できないというべきでしょう。

他の部分も含め、法律の議論としてはその通りでしょうが、
素朴な感覚に基づいて言っているのを、
法律に基づいて分析しても不毛だと思います。
もともとこの話は「法的ではない話」の例として出したわけで、
議論のレベルが違うのです。

ご存じの通り、
記事本文ではこういうことは書きませんでした。
議論が面倒になるのを避けて「触れなかったもの」を
あらためて指摘するとこうなるという話です。

> 給付を受けないでいいのなら債務を
> 履行しなくてもいいかというと、そうではありません。

要するに双務契約でも二つの側面があるということですよね。
それは逆に言えば、法律上の契約であっても、
法律以前の道義的な問題として理解するべきだと理解することもできます。

いずれにせよ、ナガブロさんの話はもっともなのですが、
自分の話とはすれ違っているでしょう。

おそらく、ナガブロさんはその点も分かっているのでしょうが、
議論の本題と無関係なところで、
批判ではないのに、批判じみた調子でコメントをする癖は
直した方が良いのではないかと思います。
私はナガブロさんの話の中でどこに同意してどこに同意できないか、
一つずつ明確にしていると思うのですが、
ナガブロさんは最後まで私の話のどの部分に同意したかを
明確にしないままで議論をしてきたと思います。
そのため、私の方では、ナガブロさんの主張の一つ一つについて、
交通整理をしなくてはいけなくなり、
議論の本題とは違うところで労力を費やすことになっています。

前にも言ったと思いますが、
別のことを書くなら、
「同意するが別のことを書く」と宣言してから別のことを書けば良いわけです。
そうすれば、こちらも無駄なことに時間を費やす必要がなくなり、
その代わりに、ナガブロさんの話の基づいた
別の話題を提供する余裕が生まれたりするのだと思います。
有意義な議論というのはそういうものでしょう。

投稿: 情報学ブログ | 2007/03/20 16:07:36

> お答えいただけず、無視されているようですので、

議論をする気がないのだと思って、
そのままにさせていただきました。

ブログの記事にしても、論文にしても書籍にしても、
あらゆる文章はは「豆知識」とも言えます。
それが重要だと思う人には、豆知識以上の価値があり、
重要ではないと思う人にとっては豆知識に過ぎないものとして見えるわけです。

したがって、「豆知識」=議論する価値がないと思うのであれば、
コメントしなければ良いのではないでしょうか。
「そんなのは豆知識に過ぎない」というブログにコメントしていたら、
どんなに時間があっても足りませんよ。
逆に、そういうコメントにレスを返す必要もないと理解しています。

> 公共の精神云々

その上で言うと、
伊吹発言を批判しているのではないって、
前にも言いませんでしたっけ?
なぜ、その話を繰り返し持ち出してくるのでしょう。
わざわざ補足まで書いて無関係ということを強調したと思います。
おっしゃることはもっともですが、
それについては自分も書いたことだと思います。

> 2についての掘り下げた議論が、失礼ながら、ないとおもいます。

それは今回の記事の範囲外なので、書いていないわけです。
本を書いているわけではないので、
記事の主張の範囲は限定されています。
このブログの記事で言っているのは、
「人権の条件に義務があるというのは間違い」だという、
その一点だけです。
それをどう解釈するかは、読む人次第で、
「単なる豆知識」と思う人もいれば、
そうではない人もいるということです。

それにどういう意味があるかは、
他の場所で調べてください。

最後に、一つ言っておくと、

> かれらにどういう人権があるのかきちんと議論されるのであれば、
> 「義務」ということばづかいでなく、
> 「居住の自由に対する内在的制約」
> 「営業の自由に対する内在的制約」という言葉遣いをすべきかとおもいます。

おっしゃる通りです。
しかし、そういう状況にまで「義務がつきもの」という感覚に訴えつつ、
「人権の縮小」を進めようとする人たちがいるわけです。
そのために、最低限のラインとして、
「人権の条件に義務があるわけではない」
ということを確認したまでです。
当然、それですくい切れていない議論はたくさんあります。

投稿: 情報学ブログ | 2007/03/20 16:36:19

>>豆知識」=議論する価値がないと思う
と私が言ったような引用ですが、「議論する価値がない」って書きましたっけ?
豆知識をトクトクとご披露なさっていることに苦笑する気持ちなら多少ありましたけれど。

>>そういうコメントにレスを返す必要もない

私は今回のあなたの豆知識は、あながたトクトクと説明するほどもなく、常識だとおもっております。その上で、あなたは、何を言いたいのか、とお聞きしているわけです。まさか、豆知識のご披露だけをなさりたかったわけでもないでしょう?それとも、そうなんですか?
あ、
>>このブログの記事で言っているのは、
>>「人権の条件に義務があるというのは間違い」だという、
>>その一点だけです。
と、一点、とおっしゃるからには、やはり、豆知識のご披露だけをなさりたかったのですか?

いや、でも、同時に、
>>義務がつきもの」という感覚に訴えつつ、
>>「人権の縮小」を進めようとする人たちがいる
ともおっしゃっていますよね。なんだ、「その一点だけ」じゃなく、それ以上のこともおっしゃっているじゃないですか?

つまり、あなたのそんな言い方が、私をここに書き込ませているんですよ。単に教科書的な豆知識のご披露だけだったら、別に反応して書き込んだりしませんよ。

あなたのお書きになったことを引用しつつまとめると、
1、豆知識の披露
2、「(権利には)義務がつきもの」という感覚に訴えつつ、「人権の縮小」を進めようとする人たちがいる
となり、明らかに1、の豆知識以上のことをおっしゃっていますよね。

さて、1の豆知識は教科書的なことですからそれでいいでしょう。で、ここが一番のキモなのですが、2は、1から自動的に出てきますか?1を説明したら、2は、もう証明したことになりますか?そこには、なおも議論したり、疑問に答えたりすべきことはないんですか?私の質問は、その点にかかっていますが、どうもあなたには伝わりにくいようですね。もしかして、そういう問題意識すらなかったのですか?

伊吹発言を繰り返し持ち出すのは、持ち出さなければ、質問できないからですよ。おことわりしておきますが、私は別に伊吹発言を擁護している立場ではありません。

あなたは、1から2への証明責任もはたさず、まず、豆知識で人を圧倒し、その上で、俗情、つまり、「ああ、そういうこともあるよな」というような感覚に訴えるような粗雑な議論をしている、政治家のことばの粗雑さを問題にしている人がね、と、そういうふうにみえるんですよ。いや、そういうおつもりはないとはおもいますけどね。

私が、
>>2についての掘り下げた議論が、失礼ながら、ないとおもいます。
と申し上げるのにたいして、
>>それは今回の記事の範囲外なので、書いていないわけです。
とお答えです。でも、あなたの本当におっしゃりたいことは、2の方じゃないですか。ブログをほかの箇所もいろいろ読ませていただきましたが、どうみても、そういう判断に達しましたよ。
痛いところをついてきた議論に対して、「範囲外」とかいう言い方で逃げるのはやめましょうよ。私の書き込みなどは、まあ、無視すればいいようなものですが、自分の本当に言いたいことに対しては、誠実に思考なさるべきかと。

投稿: お昼寝好き | 2007/03/21 22:57:52

> 自分の本当に言いたいことに対しては、誠実に思考なさるべきかと。

それ以前に、それぞれの記事における議論の範囲というのはあるわけです。
ある科学者が理論を提示するときに、
「神の意志を知る」という動機があったかどうかが、
その理論そのものとは関係ないように、
自分がどういうことを考えてこの記事を書いていたとしても、
議論そのものとは関係ないでしょう。

一方、本文にも書いたと思いますが、
今回の記事は、「基本的なこと」だと思っていますので、
「だから何?」「当たり前じゃない」
という反応は当然だと思っています。
新しい理論を提示したわけではありません。
当たり前のことを当たり前に確認しただけですから。
ただ、その場合、この記事はその人に向けて書いていないと言うだけの話です。

小学校の授業に乗り込んで行って、
「そんなの私は知ってるよ!バカな授業はやめなさい」
と言っているようなものでしょう。

> 1、豆知識の披露
> 2、「(権利には)義務がつきもの」という感覚に訴えつつ、
> 「人権の縮小」を進めようとする人たちがいる

読んでもらえれば分かると思いますが、
議論の正しさという意味では1と2は独立です。
一方、1がなぜ重要かという説明のために2を使ったわけです。
だから、2を受け入れない人に、
1は重要ではないと感じられるのも当然でしょう。
ただ、それは読む人の個性の問題であって、
この記事の議論の対象ではないということです。

もともと1から2を導くという流れではないわけです。

投稿: 情報学ブログ | 2007/03/22 4:15:00

どうも。
ふと権利と義務について気になったので検索かけて訪れたものです。
読ませていただき、大変勉強になりました。
2年前の記事で、掘り起こすのもあれですが
権利とはあまりに抽象的で、ある人が権利について意見を言ったとき、それについて反論する人は、別の権利について言っていることが多いようですね。
だから話がいつまでたっても話の不備点の指摘合戦になるような。
ここのブログ主様、アダムスティ、コメ欄の人たち、すべて別のことについて議論している気がしました。

あと、最後のお昼寝好きさんについては、ブログ主様は無視しといたほうがよかったかと;

投稿: 通りすがり | 2009/05/14 0:38:41

学校やテレビ新聞では絶対に教えてくれませんが、

今の日本の憲法や権利・人権を考える時、「日本の近現代史」を
本来ならば正確に知る必要があります、・・・歴史観のことです。

学校で習ったことは本当なのか?を。

日教組の先生方が、本当はどんな思想を持ち、どこの国を賛美して
いるか、そして何を目的としているのかを知ることが先です。

まず、悪しき日教組教育で得られた先入観は排除するべきだからです。

「旧日本軍=侵略=悪」・「その悪を退治した正義のアメリカ軍」
・・・この植え付けられてきた固定観念が 本当はどうなのか?を。

ここで書き込むには真実が膨大すぎます。
個々人それぞれが、自身で調べられることで納得ができるでしょう。

明治維新からでは長過ぎるので、あえて68年前を顧みた時、

日本の敗戦・・・GHQ占領軍・・・日本の戦後体制、が肝となります。

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
(War Guilt Information Program)

日教組、NHK、朝日新聞などがGHQから利権をもらう見返りに何を要求
されていたのか? どんなことを要求されたのかを。

戦後68年間、こうして彼らが私たち国民にどの様な吹聴をしながら肥え
太って来たのかを。

そもそも今の日本国憲法は、GHQが占領統治の為に作った憲法です。
その本意は「悪意ある善政」といわれるもので、国の主権を認めない
欺瞞の産物です。

占領政策の弊害は、日本が独立した後も、学校教育やマスコミで脈々と
続いています。

今では曲学阿世の輩までが公の場に出没する時代となりました。

そんな素性を持つ今の憲法で物事を解釈しようとすれば、様々な矛盾や
疑問や不合理が出てくるのも当然のことなのです。

投稿: momo | 2013/08/05 19:55:27

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