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権利の条件に義務があるって本当ですか?

経済・政治・国際 | 2007/02/28

権利の条件に義務があるというのは正しい場合もありますが、これが成り立たない権利があり、それが「人権」と言われているものです。ウソだと思うなら、憲法を見ればいいでしょう。小学校で習う超基本事項ですが、最近の伊吹文部科学大臣の「人権メタボリック症候群」発言にまつわる議論を聞いていると、どうもこのことが誤解されているような気がするのです。

もちろん、「権利には義務がつきもの」という状況があるのは分かります。しかし、これは少なくとも「人権」についてそのまま当てはめるのは「人権」の意味を誤解しているとしか言いようがありません。

(1) 権利と義務

権利と義務は対になる概念です。なぜなら、ある人に権利があるということは、他の人にはそれを守る義務があるということだからです。しかし、これだけだと、権利があることは、そのまま義務があるということを意味しません。ある人に権利があることが示すのは、あくまで<他の人>にそれを守る義務があるというだけなのです。

(2) 契約における権利と義務

ところが、契約においてはこの状況が変わります。契約というのは、それぞれ結ぶのも結ばないのも自由です。したがって、契約を結ぶときは、自分がある権利を持つと同時に、相手が別の権利を与えるという形にしないといけません。相手に権利を与えるというのは、自分が義務を負うということですから、別の言い方をすれば、契約の時には、権利と義務が交換条件になります。

一応、このあたりのことは常識的に考えれば分かると思います。

(3) 社会契約説

それなら、個人の国家によって保証される権利はどうやって考えれば良いのだろうか…?

ということで、17-18世紀くらいに出てきたのが社会契約説という考え方です。大きく言えば、人間は、国家との契約を結び、国家に対して義務を果たす一方、国家に対して権利を持つという考え方です。

(4) 契約の前提としての人権

しかし、人と人の間の契約だったとしても、人と国家の間の契約だったとしても、契約を結ぶ前提となる権利は初めから備わっているとしないと、そもそもこういった話は成り立ちません。そこで、「自由」「平等」と言った権利は、人間に本来備わる絶対的なものと解釈されるわけです。

これが、社会契約説の出発点と言われるホッブズの言う自然権です。つまり、自然権(人権)は契約の前提となる権利である以上、義務とは無関係の権利です。

(5) 委譲か信託か

ホッブズの場合、こうした自然権は、国家との契約によって国家に「委譲」されると考えたのですが、ロックはさらに進み、単に「信託」されているのに過ぎないと考えたわけです。これは、ホッブズは絶対君主制を考えたのに対し、ロックは間接民主制を考えていたという違いによるものです。

自然権(人権)は国家に委譲することすらできない、絶対的な権利だというところに、近代国家の基本的な考え方があると言えるでしょう。

この辺りの話は、普通に高校の倫理の教科書にも書いてあるし、法律とかやってれば誰でも知ってることでしょう。

(6) 日本国憲法と基本的人権

こうした自然権(人権)の考え方は、別に遠い国ヨーロッパのお話ではありません。これは、当然、日本国憲法にも表れていて、それが小学校の社会科で習う「基本的人権」の考え方だと言えるでしょう。

これは以下の条文を見れば明らかです。

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第97条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

ただし、日本国憲法は、もう少し複雑で、以下のような規定もあります。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

ただし、12条と11条を比べて読めば分かるように、基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」であるのを大前提として、「公共の福祉」のために利用する責任が規定されています。そして、97条でダメ押しのようにその不可侵性が繰り返されています。

つまり、「公共の福祉」のために基本的人権が制限されることは合っても、人権そのものの「不可侵」は変わらないということです。たとえば「あなたは公共の福祉になっていないから、あなたには基本的人権はない」ということは言えないでしょう。もしこのような主張が通るのなら、基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」ではなくなり、この条文ができた歴史的経緯とも合わないことになるからです。

もちろん、憲法には、国民の義務の規定もあるわけですが、いずれにせよ、「人権には義務がつきもの」というような軽率なものではなく、あくまで「人権」と「義務」は別のものとして考えなければいけないわけです。

(7) それでも義務あってこその権利!

いや、それでも、やはり実生活の上では、権利には義務がつきもの。義務を果たさないで権利だけ主張する若者はけしからんとか言う人がいるかもしれません。

ただ、その場合、基本的人権とは全く別のことが問題にされているわけです。たとえば、学校と生徒、企業と従業員と言った関係は、基本的に契約関係なのだから、「権利には義務がつきもの」と言うのは間違いではありません。また、法律で定められる個別の権利行使の方法(車を運転することなど)には、義務が伴うこともあるわけです。

しかし、これは基本的人権とは全然違う問題であり、こうした事例をもとに、「人権にも義務がつきもの」というと、そもそも何のために人権の思想ができてきたのか分からなくなるのです。学校や会社での権利を説明するのに、人権思想など必要なく、単なる契約だけで十分です。また、「車を運転する権利」は人権ではなく、単に権利と言えば言い訳です。

単純に言えば、「義務がつきもの」ではない権利が人権です。そうである以上「人権には義務がつきもの」という主張はどう考えても正しくないのです。

(8) 美しい国を目指すあなたへ

いずれにせよ、このように考えると、人権の話をしているときに、「権利には義務がつきもの」というのが、どれだけおかしな話なのか良く分かると思います。「人権には義務がつきもの」というとすると、それは論理的に「人権不要論」です。通常の権利だけで十分という考え方になります。

ただ、安倍首相などは、「それは低レベルな西洋の思想であって、占領軍に押しつけられた憲法こそ変えないといけない。美しい日本は西洋と違うんだ!!」というかもしれません。そこで、そういう人にダメ押しで説明させてもらいます。

a. 義務を果たせない人

障害者論で良く問題になってきた話ですが、重度な障害者、痴呆など、「社会に対して義務を果たせない人」には権利はあるのでしょうか。「権利には義務がつきもの」というのなら、彼らは虐殺されることになります。

b 自然権思想はなぜ出てきたか

これは言うまでもなく、国家権力の横暴によって、国民の権利が脅かされるという当時のヨーロッパの状況で、そのお反省に立って作られたものです。

自然権、あるいは基本的人権に何らの条件を課すようなことをした場合、国家権力は、それをきっかけにして人権侵害を始める。そして、人権は骨抜きにされてしまうというというのは人類の歴史でした。

たとえば、国家権力が報道の自由の制限するような権利を持った場合、自らの都合のように報道統制を行い、国民の自由が守られなくなる。また、警察権力に対する自由を持たなくなれば、拷問や政治犯の拘留が行われ、国民の自由が守られなくなる。私がこのブログの記事をかけるのも、こういった「人権」が守られているからです。実際、政府批判をしたら逮捕されるような国だって世界中にたくさんあるのです。安倍首相を支持する人たちが良く中傷のダシに使う、「中国」や「北朝鮮」「韓国」はまさにそういう国でしょう。

「人権には義務がつきもの」などと言っていると、そういうふうになってしまう。これは、中国や北朝鮮だけではなく、世界の歴史が物語る真実です。そこで、こうした歴史認識に立った上で、「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」という憲法の条文があるわけです。

「美しい国日本」は特別で、人権などなくても権力の横暴が起きない素晴らしい国なのでしょうか?

「日本の伝統」の名の下なら、こうして人類が積み上げてきた遺産も全て否定して良いのでしょうか?

そういう人に、日本でどれだけ人権侵害が多いかという事実を指摘しても、「大したことない」としか思えないのでしょうから、耳にタコができるような話は止めておきます。その代わり、たしかに、日本は世界でも特別な国で、人権が制限されても「美しい国」になるのかもしれない、それは実際にやって見ないと分からないというところまで譲歩しましょう。ただ、失敗したときのリスクを考えると、恐ろしく危険な思想だということは言えると思います。

(9) 最後に、自分の立場

こんなことを書いておいて何なのですが、自分自身は、普段、こういう「基本的人権」さえ、時には他の価値との対立の中で存在していると解さないといけないことを主張する立場です。たとえば、「生活保護」というとき、どこまでの生活を保障しなければいけないか、医療保険制度をどうすれば良いか、安楽死や脳死臓器移植の問題などを考えるとき、人権の絶対性だけでは解決できないこともあります。

それに対し、今回の記事はそうした問題とは無関係の、人権についてのごくごく基本的なお話だと思います。要するに、本来、自分は「人権」が絶対的なもの、などと言う柄ではなく、むしろ正反対の主張をする立場なのです。今回の記事も、憲法学を専攻している人などに書いてもらった方が、より正確な解釈ができたでしょう。

しかし、そういう立場の自分だからこそ、「人権には義務もつきもの」という発想の危険性は特に感じているわけです。たとえば、高額な治療を受けて、生命を維持する権利が、「支払い」の義務で制限されるという現実はあります。しかし、これはあくまでそうなってしまっているという事実の問題であって、「そうするべき」という価値の問題ではありません。法的、あるいは倫理的な、「治療を受ける権利(この場合は生きる権利)」そのものは義務とは別に存在していると考えないといけないわけです。もし、こういう状況で「人権の条件に義務がある」というのを認めるとすると、「貧乏人は死んだ方がいいので、それに基づく社会制度を作るべき」という許し難い主張も許容することになるでしょう。

人権も決して絶対的なものではなく、あくまで政治のバランスの中で存在しているものです。あると言えばあるし、ないと言えばない。しかし、だからこそ大切にしていかないといけないということも言えるでしょう。

ただし、「人権」を主張する人が、ここで書いたような「人権」の意味を本当に理解しているかというと、それも疑問かもしれません。たとえば、本来「人権」でないものまで、「人権」として「義務をともなわない権利」と主張するのは問題でしょう。また、「人権」が本質的に絶対なものではないからこそ、「不断の努力によつて、これを保持しなければならない」ものだということを忘れると、人権を主張することによってかえって人権を空洞化させることにもつながります。

いずれにせよ、こうした「人権」と「権利」の違いは一般的にはあまり理解されていないわけで、これは、安易に人権を批判する伊吹氏のような「アンチ人権派」、これに対して反発する「人権派」の両方について言えるのではないでしょうか。このために、本来の意味での「人権」が縮小している現状こそ、現代の「人権」にまつわる最大の問題なのかもしれません。

○訂正とお詫び(3/1)

この記事は、もともと、伊吹文部科学大臣が「人権メタボリック症候群」という発言をし、それをフォローするのに「権利には義務がつきもの」という発言がされたことを批判する記事として書いたものです。しかし、後になって、このロジックには飛躍があることに気づきました。というのも、安倍氏や伊吹氏が「権利には義務がつきもの」というとき、「権利」が「人権」であるとは言われていないからです。たとえば、伊吹氏は以下のような主張をすることができ、これは全く正当です。

: 「権利には義務がつきもの」というのは、
: 人権について言っているのではなく、
: あくまで一般的な権利に「義務がつきもの」と
: 主張しているのに過ぎない。
: 伊吹発言の背景にあるのは、
: ある権利が「人権」ではなく、
: 「義務がつきもの」な権利であるにもかかわらず、
: 「人権、人権」と言って、
: 「義務がつきもの」ではない
: 権利であるかのような主張をするという状況。
: こういった状況を問題にするのが、
: 「人権メタボリック症候群」という発言なのだから、
: このフォローに「権利には義務がつきもの」であることを言うのは、
: 間違っていない。

最近の憲法改正の流れを考えても、安倍氏や伊吹氏がここまで考えて発言したかは疑問ですが、上記のような主張ができる以上、「論理的な間違い」というのは正しくなかったと思います。

もともと、本文のほとんどは、「人権には義務がつきもの」という主張を批判するものでしたが、冒頭と末尾のごく一部に、伊吹氏の発言に対する言及がありました。すでに本文からこれらは削除させてもらいましたが、反省の意味を込めて、あらためてここに記すものです。

ちなみに、こういった観点から伊吹氏に対して国会質問したら、非常に有意義な政策論争になるのではないかと思います。今の野党には無理かもしれませんが…。

○参考サイト

社会契約説
http://learning.xrea.jp/%BC%D2%B2%F1%B7%C0%CC%F3%C0%E2.html
基本的人権保障の思想
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jinnkennsisou.htm
憲法学教室
http://www.h2.dion.ne.jp/~g-shoshi/ConstitutionalLaw/kyoushitsu.html
307憲法に民の義務は不要! ―― 憲法と法律の違い
http://botugo.no-blog.jp/asia/2007/02/307__a0f4.html
改憲論をめぐって<1> 憲法観の転換
http://www.ibaraki-np.co.jp/series2/kenpo/page17.htm
日本国憲法
http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM
Wikipedia―権利
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%88%A9
Wikipedia―義務
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%8B%99

○関連サイト

伊吹文科相「人権メタボリック」発言に我が意を得たり
http://d.hatena.ne.jp/bruckner05/20070228/p1
人間らしく生きる権利に対して、いかなる義務を要求するというのか
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070210/1171089018

○関連記事

これに関連して、伊吹発言については以下の記事で扱っています。

伊吹発言の何が問題か/人権メタボリック症候群
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_537d.html

人権についての具体的な問題について、以下の記事で扱いました。

「日の丸・君が代拒否」は内心の自由の問題なのか?―本来の争点は別のところにある
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_30fc.html

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正義とは何か

情報学 | 2007/02/27

正義とは何かということについて、システム論的に考えます。

(1)
一般論として言えば、正義はさまざまな社会(コミュニケーションのつながり)と、一人一人の心において「ある」と言って良いのではないかと思います。「さまざまな社会」というのは、国や民族、会社、社会なども含みますが、マスメディア、司法などもそれぞれ独立した社会であり、それぞれの正義があると言うことです。こうした正義は相互に関わり合いながら、一応、独立して存在しています。

(2)
ワイドショーなどで正義が議論されるとき、多くは国レベルでの正義でしょう。近代国家では、マスメディアと法制度、司法、政治が、正義について重要な役割を果たしていると言えると思います。この場合、たとえば「自由」の価値も、あくまでこうした中でとらえられているわけです。

(3)
一方、グローバル化した現代においては、「人類社会」における正義も重要です。これは「人権」といった問題について国を超えた議論がされるようになったことと関係しているでしょう。こうした「人類社会の正義」は、悲惨な戦争、虐待、虐殺などを国際的に強調して阻止することを(理屈の上で)可能にした一方、結果として「テロリズム」「対テロ戦争」の両方の出発点になっていることには注意を払わないといけないと思います。

(4)
現実にはこうした構造の全体に注目しながら、それぞれのレベル(社会、心)において正義を調整していくしかないでしょう。ここで重要なのは、<こういった構造を理解しつつ>正義を調整していくことではないかと思います。そのことによって、正義の名の下の極端な価値観―たとえば、テロリズムや対テロ戦争―を回避できると思われるからです。

○関連記事

以下は、一応別の記事になっていますが、同じ問題に対する別の説明という側面が強い記事です。合わせて読んでいただければと思います。

規範とは何か
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_ed02.html

本文の最後で触れた<こういった構造を理解しつつ>問題を調整するということについて、具体的に述べたのが以下の記事です。

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

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生きる意味について

情報学 | 2007/02/25

「何のために生きているんだろう」「生きる意味なんてないんじゃないか」そんなふうに考えたことがある人はいないでしょうか?苦しいときときや悩んでいるとき、私たちはいつの間にか、そうやって考えてしまうものです。でも、「生きる意味」って、そんな簡単に見つけられるものではありません。しかし、生きる意味っていったい何なのでしょうか。

結論を先に言えば、「生きる意味」などどこにもありません。なぜって、世界のあらゆるものに意味を与える源泉となるのが「生きること」であり、生きることに意味を与えるものはないからです。世界のあらゆるものには意味がありますが、「生きること」には意味がありません。私たちが生きることは、「生きる意味」なんかで表せないほど、かけがえのない、素晴らしいことなのです。

たしかにそれぞれ生きていく中で、「これが生きる意味だ」と感じることもあるかもしれません。しかし、それは決して本当の生きる意味ではなく、「自分が生きていく上で、重視している価値観」に過ぎないものです。「生きること」よりも優先されるようなもの、つまり、「生きること」に意味を与えるようなものは、世界中のどこを探してもないのです。

この記事では、「意味とは何か」という情報学の理論を踏まえながら「生きる意味」について考えていきたいと思います。

(1) 意味とか価値とかそういうこと

ものごとの意味とか価値は、「~にとっての意味」「~にとっての価値」というようにしか考えることができません。たとえば、コンビニに売っている商品に意味があるのは、「お金に換えるために役立つ」「自分が生きるのに役立つ」といった意味があるからです。仕事をすることに意味があるのは、自分が生きるために役立つからです。私たちは、意味や価値が、言葉や品物に備わっていて、それに基づいて生きているように思いがちですが、実は「~にとっての」ということと切り離して「意味」や「価値」を考えることはできないのです。

さて、私たちは私たちは生きていく上で、さまざまなものに意味を見いだしています。私が生きている世界を「私の世界」と言うとすると、「私の世界」のあらゆるものは、私にとって意味があったりなかったりするものです。お金、仕事や学校といった社会の約束ごとも、家族や親しい人との愛情も、全て「私の世界」で起きていることであり、私にとって意味があったり、あるいはなかったりするものです。

たとえば、「自分は会社にとって意味のない人間なんだ」って思ったとします。しかし、考えてみれば、「会社」ということに意味を与えるのは、最終的に自分しかいません。もちろん、社会が「会社」に意味を与えるかもしれませんが、社会的な価値観に意味を与えるのも、「私」しかいないわけです。そういう意味で、世界のあらゆることが「私にとっての意味」として描かれているのです。

逆に言うと、「私が生きること」の意味を、私の外に求めようとしても、そんなものはどこにもありません。世界のあらゆるものに意味を与えるものが、「私が生きること」だからです。私が生きることには意味なんてない。「私が生きること」は、私が生きることに対してだけ意味があるのである。だから逆に、「死んでしまおう」と思えば、その瞬間、意味のあった世界から意味が消えてしまうでしょう。「死のう」と思った瞬間、世界は死んだ世界になってしまいます。

要するに、生きることは、世界のあらゆるものに意味を与えるものであり、そうした私自身の「生」は、世界でたった一つのかけがえのないものなのです。私自身の生きる意味は、そうして私が生きることによって、初めて与えられると言うことができるでしょう。

(2) 価値の対立とかせめぎ合いとかいうこと

Meaning_of_life01 「会社で仕事をして収入を得る」「学校で友達とうまくやっていく」というようなことは、全て私が「私の世界」で生きていく中でで意味が与えられるものです。それらは全て「私にとって」意味があることです。

しかし、一方で、「会社で仕事をして収入を得る」「学校で友達とうまくやっていく」ため、どうすれば良いかということを考えないといけないことがあります。たとえば、「会社で仕事をして収入を得る」ために、辛いのを我慢して仕事にいこうとか、「学校で友達とうまくやっていく」ために、いろいろ気を使おうとかそういうのが当てはまります

たしかに「私が生きる」というのは、自分が生きていく上で一番大切なことですが、その中に、「会社で仕事をして収入を得る」「学校で友達とうまくやっていく」「自分の健康を守る」「曲がったことをしない」といった、さまざまな価値基準があります。これらの価値基準はそれぞれ、ものごとの意味を与えるものであり、その意味で「私が生きる」ということに似た性質を持っているものです。 しかし、これらの価値基準は、「私が生きる」ことに対しては、全て手段に過ぎないわけです。しかし、こうした小さな価値基準は、しばしば絶対的な目的であるかのように思えてしまうものです。会社で仕事をして収入を得るために自分の命を犠牲にしたり、学校で友達とうまくやっていけないことを苦にして自殺しようと思ったりする人は、こうした小さな価値基準が、自分の生きる目的であるかのように思っているのだと思います。

ここで、問題なのは、こうした「価値基準」がしばしば対立してしまうということです。たとえば、「会社で仕事をして収入を得る」ためにどうすれば良いのかという価値基準に基づいて、寝る時間を惜しんで働いたり、理不尽な命令にしたがったりするのが良いのか、「自分の健康を守る」「曲がったことをしない」という価値基準にしたがって、病気の時は会社を休んだり、理不尽な命令は拒否した方が良いのかというような対立です。こうして価値基準が対立するとき、人は悩んだり、苦しんだりします。

このようなとき、複数の価値基準の優劣を誰かが付けてくれれば簡単なのですが、そのような優劣を付けてくれる人はどこにもいません。なぜならば、それを決めるのは、いつも自分だからです。価値基準の対立は、「自分が生きる」ということを通して初めて解消されるのです。だから、価値基準が「自分が生きるための意味」を持っているということを忘れると、対立する価値基準の中で何かを「判断する」ということができなくなってしまいます。そのような時、人は打ちひしがれ、「絶望」という状態になるのです。

(3) 人が社会の道具になるということ

Meaning_of_life02 さて、ここで問題なのは、こうした「価値基準」によって、「私」自身も判断されるということです。たとえば、私の世界の中に「会社で仕事をして収入を得る」という価値基準があったとします。その価値基準はあくまで「私にとっての意味」があるものです。しかし、私たちは、会社の中で、「私」自身がどういう意味を持っているかということを考えてしまいます。「私が生きる」という目的のために、「会社で仕事をして収入を得る」ということがあるはずわけですが、「会社で仕事をして収入を得る」という目的のために、再び「私が生きる」ということができてしまうのです。図にすると、「私が生きる」という大きな丸の中に、「会社で仕事をして収入を得る」という少し小さな丸がある。しかし、その「会社で仕事をして収入を得る」という丸の中に、再び「私が生きること」という丸があることになります。この小さな丸は、いわば「会社」に限定された私の意味を表現するものです。

これは、たまたま「会社」を例にして説明しましたが、学校でも恋愛でも友人でも全て同じです。たとえば、友人のAさんというのは私にとって意味がある存在ですが、Aさんにとっての自分自身の意味というのも考えることができます。人は世界に意味を与えると同時に、自分が意味を与えた世界の中で、再び自分の意味を見いだしているわけです。

ここで、私たちは生きていく中でこうした複数の意味のうち、あるものに「こだわって」ものごとを考えたりします。会社で働くときは、「会社」という視点からものごとを考えることで、良き従業員となります。友人や上司と一緒にいるとき、その人の視点に注目してものごとを考えることで、その人との関係を円滑に進めていくことができます。こうやって一つのものに「こだわって」考える働きは、それ自体、自分が生きるための働きであり、自分が生きていく上で、非常に便利なものです。

しかし、私たちは、いったん一つのことにとらわれてしまうと、本来の「自分が生きる」ということが見えなくなってしまいます。私たちが、会社や友人、家族、プライドのことで悩むとき、会社や友人、家族、プライドが、全て自分が生きるための手段だということが忘れられ、こうしたもののために「死んでしまおう」と思ったりします。

本来、会社も、友人も、家族も、プライドもも全て「私が生きる」ための手段に過ぎません。それらは全て「私が生きる」ことによって意味を与えられるものなのです。しかし、そのことが忘れられるとき、あたかも、「私」は誰かに意味を与えられる存在のように思えてしまうのである。そうなると、人間はあたかも、会社、社会、上司など…の道具であるかのようにとらえらえることになるでしょう。これが、人が社会の道具になるということです。

(4) 人が悩んだり、死のうと思ったりするということ

私たちが生きていく中で、さまざまなことで悩みます。こうした悩みは全て先ほど取り上げた「価値基準の対立」によるものであり、簡単な答えはありません。会社を取るか、自分の健康を取るか、あるいは恋愛と友情のどちらを取るか。こういう価値の対立を決める明確な基準はないのです。ところが、私たちは、自分が生きていくことで、ものごとに意味や価値を与えていくことができます。たしかに、世界そのものには意味はありません。自分がいなければ、世界は「意味のない」死んだ世界です。しかし、自分が生きることによって、吹き抜ける風に涼しさが与えられ、鳥のさえずりにやさしさが与えられます。世界に意味を与えるのは、「私が生きる」ということにほかならないのです。

こうやって「価値がない」ものに価値を与えていくということは、しばしば困難を伴うことです。特に、対立する価値基準のどちらを取るか決めなければいけないというとき、悩まない人はいないでしょう。ただ、人がどんなに悩んでも、それが全て「私が生きる」上でのできごとだということが自覚されていれば、何かしら解決の方法は見つかるものだと思います。「生きる」ということそのものが、価値を与えることであり、解決の方法なのですから、解決の方法は「見つける」というより、ただ「そこにある」と言った方が良いかもしれません。

ところが、一つの価値基準にとらわれ、そうした価値基準が自分が「生きる」ためのものだということが見えなくなってしまっている人、そうした価値基準のために自分が生きているのだと思いこんでしまっている人はそうではありません。そういう人にとって、自分自身は、単なる社会の道具に過ぎないからです。

それでも、自分に「社会の道具」としての意味があると思っている場合はまだましでしょう。社会の道具としての意味は、自分が生きていくための「本当の意味」ではないかもしれませんが、それでも意味には変わりません。だから、そのことを「生きがい」にしてがんばることができます。たとえば、「自分は仕事をしているから生きる意味がある」「学校で良い成績が取れるから生きる意味がある」と考えている人は、それがうまくいっている場合、がんばって努力することができます。しかし、自分自身に「社会の道具」としての意味すらないと考えるようになってしまった人はそうではありません。そういう人は、自分には生きる意味がないと思い、「生きる意味がない」、「死ぬしかない」という結論に至ることになります。

そういうとき、自分がとらわれている価値基準以外にも価値基準があるということに気づけば、問題は自然に解決するものです。そのことによって、そうした価値基準自体が、自分が生きることによって初めて意味が与えられるものだということに気づくことができるからです。たとえば、私たちは、気分転換や趣味を見つけること、あるいは、周囲の人が自分のことを心配しているということに気づくというようなことを通して、普段、自分が囚われている価値基準以外の価値基準の外側に目を向けることができます。そして、そのことを通して、「自分自身が生きることそのもの」についても見つめ直すことができます。

たとえば、自殺しようとする人が、「勉強もできないし、友達ともうまくやっていけないのなら生きている意味がない」というとき、「学校の中で勉強をし、友達ともうまくやっていかないといけない」という価値基準にとらわれているわけです。これは大人の自殺でも同じです。「自分は仕事もできないし、周りに対して何もできない、こんなんだったら死んだ方がいい」と言うとき、仕事をしていく以外に社会の中での自分の価値、役割があるということが見えなくなっているし、さらに言えば、そもそもそういう社会の価値基準に意味を与えるのが、「自分が生きる」ということだということが見えなくなってしまっていると言えます。

こうした状況で、何よりも必要なのは、自分が囚われている価値基準以外の価値基準に目を向けることではないでしょうか。気分転換や趣味を見つけたり、周囲の人に目を向けること。そのことによって、世界のあらゆるものに意味を与えているのは、自分が生きることにほかならないと気づくことができるからです。
 

○補足(情報学と生きる意味)

今回の記事では、あえて情報学の用語を使わないようにしましたが、この記事と、情報学の関係について簡単に説明したいと思います。

「意味」が何かによってしか与えられないということや、「価値の対立」を解決することができないということは、全て情報学の議論導かれる結論です。情報の意味を与えるのは「システム」である一方、システムの意味は別のシステムによってしか与えられないという関係として定式化されます。そのことを「生きる」ということに当てはめたのが、ここまでの議論でした。

この記事を通して、こうしたことにも興味を持っていただけると幸いです。

○関連記事

恋することと情報学
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_cb77.html

生きる意味
http://anond.hatelabo.jp/20090301034255

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

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規範とは何か

情報学 | 2007/02/15

規範はいったん記述するとあたかも例外なくしたがわなければいけないように思えてしまうのですが、規範の全体像はそういうものではありません。規範を「価値基準の対立」としてとらえていくとはどういうことか、基本的な考え方を解説します。

○記述された規範と全体としての規範

(a) 記述された規範

規範を「~してはいけない」という形で記述すると、それは例外なくしたがわなければいけないものとして理解されます。一つでもそれを認めれば、他の状況でも認めることになってしまうとも言えるでしょう。 (カントの定言命法はこのことを指摘するものです)。

(b) 全体としての規範

ところが、こうした(記述された)規範は無数にあり、それは相互に対立します。本来、規範の全体は、こうした対立の全体として理解されるべきです。ただし、こうした規範の全体はどうやっても記述することができず、記述した瞬間に(a)の集まりになってしまいます。

○価値判断の主体と価値基準

規範がこのように成立しているとすると、それぞれの状況で価値判断をするのは誰なのでしょうか。

価値判断の主体は、問題の性質によります。 たとえば、「<私>についての問題」なら判断する主体は<私>です。 「<社会>についての問題」なら判断する主体は<社会>です。こういった価値判断の主体は「価値基準」と言うこともできます。これらは前述の(b)に対応するものと言うことができるでしょう。

○さまざまな価値基準

価値判断の主体としては、大きく<心>と<社会>があると言えますが、<社会>というのは、さまざまなレベルでのコミュニケーションのつながりを含むもので、家族、地域、企業、大きなところでは国家としての視点があります。「判断する主体が<社会>」というのは奇妙な言い方ですが、要するに、「法律で決まってるからダメなんだよ!!」「とにかく規則なの!!」っていうアレです(笑)。 それぞれの<社会>の歴史において、規範が決められていくわけです。また、「法的な価値判断」「経済的な価値判断」「○○主義」といったものも価値判断、価値基準の主体の一種と言えるでしょう。

こういったことは、前述の(b)だけではなく、(a)についても常に成り立ちます。「~してはいけない」というとき、それは<心>や<社会>における部分的な価値判断の主体であり、価値基準です。(a)-(b)の分類は、価値判断の主体、価値基準についての分類でもあります。

○価値基準の共約不可能性

ここで、異なる価値基準のうちどちらが優れているというようなことを、特定の価値基準によらずに決めることは一般にはできません。価値基準を優劣を決めるのはまた価値基準だからです。こういう価値基準の関係は、一般には「共約不可能性」などと言われたりします。倫理の問題は、こういった「共約不可能な価値」の対立としてまとめられます。

○システムと規範

以上、システム論的な説明は一切行わず、倫理学的な問題関心にしたがって規範について説明してきましたが、これは、システム論における規範概念を前提にしたものです。

このメモで「価値基準」と述べたものは、情報学的システム論ではシステムです。ここで、システムは情報の集まりであり、次々に情報が生成していくものです。たとえば、心というシステムには次々に私にとっての現象としての情報が立ち現れるのであり、社会というシステムにはコミュニケーションという情報が生成していきます。ここで、どのような情報が生成するのは、そのシステムの全体、システムの歴史性のようなものによって決まります。ここで、「どのような情報が生成しやすく、どのような情報が生成しにくいのか」という観点からとらえられたシステムの構造が、システムの規範と言うことができます。規範について考えるとは、システムについて考えることにほかならないわけです。

その上で、冒頭の(a)と(b)の関係は、システムがどう立ち現れてくるかという、システム論の議論を表現したものです。伝統的なシステム論の用語法だと(a)がシステムの構造で、(b)がシステムの構成です。同じことですが、情報学だと(a)が存在的情報で、(b)が本質的情報とも言えます。

規範には、道徳規範だけではなく、言語や、一人の人間の行動基準のようなものも含まれます。たとえば、「めらめらとした熱いものに触ってはいけない」というのは、その人にとっての規範と言えるでしょう。また、それが社会における共通了解になっているのなら、社会における規範とも言えるわけです。したがって、情報学における規範概念は一般的な規範概念よりかなり広い概念です。

/////

以上、かなりラフに、情報学における規範のとらえ方について説明しました。社会におけるさまざまな意見の対立、価値基準の対立は、このことから理解されます。

○関連記事

価値基準の対立関する具体的な問題について議論した記事に、以下のものがあります。

著作権とは何なのか?―共約不可能な価値の対立の問題として
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_2a2d.html

○関連サイト

http://petarou.blog42.fc2.com/blog-entry-135.html
http://albatros2.blog27.fc2.com/blog-entry-404.html

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物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治

情報学 | 2007/02/05

現代の政治は選択をしていないと良く言われます。しかし、政治はむしろ選択することから疎外されているのではないでしょうか。そして、実は私たち一人一人も、自分の人生の中で選択することから疎外され、どうすることもできずに生きているように思えます。では、そもそも「選択する」とはいったいどういうことなのでしょうか。物語としての私、そして歴史ということを出発点に、このことについて考えていきたいと思います。

1. 意識されない〈私〉

人間は自分の感覚や経験についてごくわずかしか知ることができません。たとえば、この文章を読んでいる皆さんは、紙に触れる手の感覚について意識することができます。椅子を圧迫する背中の感覚を意識することができます。また、襟の周りの服の感覚を意識することができます。ところが、あなたは、たった今、そのことを指摘されるまで、その感覚に気づいていなかったのではないでしょうか。私たちの感覚や経験のうち意識に上るものはごくわずかであり、その背景には膨大な「意識されない感覚」があるのです。

これと似たようなものとして、「無意識」とか「潜在意識」と呼ばれているものがあります。しばしば雑誌で取り上げられる夢判断や心理テストは、その人が自分で意識できる意識の奥深くに自分では意識できないような潜在的な意識(意識されない意識)があるというフロイトやユングの考え方を背景にして生まれてきたものです。

「意識されない感覚」にしても「意識されない意識」にしても、共通するのは、自分で気づいている感覚や意識はごくわずかであって、その背景に、意識されないもっともっと大きなものがあるということです。これを〈私〉と言う言葉を使って言い直せば、「自分で意識される〈私〉は、〈私〉のごく一部であり、その背景には、もっと大きな〈私〉の全体がある」と言うことになるでしょう。「意識される〈私〉」の背景には、「意識されない〈私〉」があるのです。

2. 歴史とは物語ること

さて、良く言われるように、歴史(history)は一つの物語(story)でもあります。歴史は、その社会がどのように成り立っているのかを語った物語として生まれてきたものだからです。人間がバラバラに生きているのであれば歴史は必要ありません。ところが、ある程度以上の大きさの社会になると、社会の成り立ちについての物語、つまり歴史が必要になってきます。歴史という物語を共有することで、社会は一つの共通する意識を持てるようになるのです。

小さな社会であれば、数十年程度の物語で良いわけですが、より大きな社会になってくれば、太古の昔からの物語が語られるようになります。さらに、こうした物語のあるものは、人間が存在する前から滅亡する後までを、一貫して語るような物語になるのです。人間が存在する前や、滅亡した後を語るような物語には、通常「神」が登場し、「神話」と呼ばれることになります。物語は人間によって語られますが、語られた物語は人間が存在する前から、場合によっては滅亡した後について語ることだってできます。

こうして「人類が生まれる前から滅亡する後まで語ることのできる物語」の一種として、「数学」というものがあります。たとえば、世界中のどこを探しても幅のない本当の直線など存在しません。また、完全な三角形などどこにも存在しません。しかし、人間は頭の中に直線を思い描き、それに基づいてものを考えることができます。人間が滅亡し、全ていなくなれば直線を考える人はどこにもいなくなるわけですが、「直線」の概念は、人間が生まれる前や、人間が滅亡した後のことについても説明することができます。これは「直線」というのが、人間が生まれる前から、滅亡した後までを語る、壮大な物語の中で語られるものだからです。このように考えると、数学にしても、物理学にしても、生物学にしても、一般に学問と思われているものは全て一つの物語だということが分かると思います。

歴史は、過去を語る物語であると同時に、未来を語る物語でもあります。歴史には、社会が今までたどってきた歴史を語ることで、社会をこれからどうしていくかを語る意味もあるからです。たとえば、これから戦争を盛り立てていこうと思うのであれば、そのための歴史を物語ることになるだろうし、平和主義の社会を築いていこうと思うのであれば、そのための歴史を物語ることになるでしょう。どちらが正しいというわけではありません。一つ一つの歴史はどれも「正しい」物語だからです。

日本の場合、戦後長い間、平和主義に基づく教育が行われ、それに基づく歴史を物語られてきましたが、最近では、もっと戦争を推進できるような物語を普及させるために、一部の人たちががんばったりしています。これもどちらが正しい歴史と言えるようなものではありません。「新しい歴史教科書を作る会」のように「軍国主義国家としての誇り」を訴える歴史も一つの歴史だし、平和主義の国としての誇りを訴える歴史も一つの歴史だからです。

ただ、私たちはそれぞれの「歴史」がどういう未来を描こうとしているかについては、きちんと考えなければいけません。「新しい歴史教科書を作る会」の人たちが「自分の国に誇りを持てる歴史を作ろう」などと言うとき、彼らが考えているのは、軍国主義の国としての「誇りある歴史」なのです。逆に言えば、平和主義の国として「誇りある歴史」だって立派な「歴史」です。どちらが「誇りある歴史」でどちらが「誇りのない歴史」ということは本来、ありえないのです。歴史が物語だということはそういうことです。

今の日本が、歴史に誇りを持てない国だとすれば、それは、憲法で平和主義を訴えておきながら、湾岸戦争やイラク戦争を支援するというような、中途半端なことをやっているからです。そのために、日本人は、どの物語に基づいた誇りも持つこともできない宙ぶらりんの状況に置かれています。たしかに、日本が戦争に突き進まざるをえない状況で、現状肯定的に、「軍国主義の国としての誇りある歴史」の評価が高まるのは仕方ないことだと思いますが、それがどういう未来を見据えた歴史かということは十分考えていかなければいけません。

3. 私という物語

さて、ちょっと話がそれてしまいましたが、話を元に戻したいと思います。

こうした「物語としての歴史」は、さきほどの「意識される〈私〉」と「意識されない〈私〉」の話とも重なります。「意識されない〈私〉」に対して、「意識される〈私〉」は、「〈私〉についての物語」とも言うこともできるからです。

「〈私〉についての物語」も、歴史の物語とおなじように、過去について語り、そして未来について語る物語です。私たちは、常に、自分がどのように生きてきたかという過去の物語を語っているし、これからどうやって生きていくかという未来の物語を語っているのです。こういう過去から未来への物語として、「私の意識」があると考えることができるでしょう。

たとえば、人は恋をしているとき、「恋」という物語を描いています。相手と出会ってからの自分、相手と一緒に過ごす未来の自分、相手のことを好きな今の自分、そういったことを語る壮大な物語、それが「恋」という物語なのです。

通常、そう言った物語が、物語として意識されることはありません。しかし、失恋して新しい恋に踏み出したとき、私たちは新しい物語を語り直します。そして、古い物語が、「一つの物語に過ぎなかった」ということに気づかされるのです。たしかに、新しい恋になかなか踏み出せなくて、長い間、古い恋から離れられない人もいます。でも、多くの人は、たとえ時間がかかっても、前の恋を忘れ、新しい物語に踏み出していくことになります。

こうして、新しい恋に踏み出すとき、私たちは「選択」をしています。選択とは、自分についての新しい物語を語り直すということにほかなりません。私たちが選択をするとき、それがどんな選択であったとしても、過去についての新しい物語が始まり、未来についての新しい物語が始まるのです。

ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』という童話をご存じでしょうか。主人公のバスチアンはいじめられっ子で、何をやってもダメだと思ってあきらめている。ところが、たまたま見つけた「はてしない物語」という本を読んでいるうちにいつの間にか本の主人公になってしまうのです。「はてしない物語」の中では、バスチアンが何かを選択をすると、その瞬間に世界が変わり、そこから、新しい物語が始まります。自信を付けたバスチアンは、「はてしない物語」から日常の世界に帰ってきても、自分の選択に自信を持つことができるようになり、自分の生きていく世界を変えていくことができるというストーリーです。「選ぶことで世界が変わる」これは童話の中だけの話ではなく、私たちが生きる世界にそのまま成り立つことなのです。

同じような本はほかにもたくさんあります。デール・カーネギー、オグ・マンディーノ、どちらも選べば道は開かれるということをテーマにして世界的なベストセラーになった本です。これらは、「私たちはつらいときは状況に流されてしまい、どうすれば良いかさえ分からなくなってしまう。だけど、それを変えるのは選ぶことだ」という、共通するメッセージを持った本なのです。こういう本がベストセラーになるということは、それが、現代の人間にとって必要なことだと思われているからでしょう。

こうした本が教えてくれているように、私たちにとって一番いけないのは、間違った選択を怖がるあまり、選択することから逃げるということです。何かをしなくてはいけないと分かっているのに、何もすることができずに時間が過ぎていく。良くないって分かっているけれど、思わず逃げてしまう。これは誰にでも経験があることだと思います。

私たちが落ち込んでいたり無気力になったりするとき、あるいは、惰性に流されて生きているとき、私たちは何かの歯車になったかのように、ただそこに生きているだけです。選択することから逃げている。いや、「選択することから疎外されている」とも言うことができるでしょう。

しかし、そういうときでさえも、私たちは「選ぶ」ことによって、その状況を変えていくことができます。それは私たちが〈私〉という物語の主人公だからなのです。

4. 政治と選ぶということ

こうして「選ぶ」ことの大切さは、一人一人の人間について言えるだけでなく、社会についてもそのまま成り立ちます。

たとえば、国として戦争に参加するというとき、長期的に見て、戦争の相手国から自分の国が攻撃を受ける可能性を高めることになります。また、莫大な費用の負担もあります。一方で、戦争に参加することによってもたらされる外交的・軍事的・経済的な利益は決して少なくはありません。こういう状況で、あえて「選択する」ということが戦争に参加することのはずです。

しかし、イラク戦争のときや湾岸戦争のとき、さらに言えば太平洋戦争とき、日本はこういう選択をしたでしょうか。もちろん、一部の政治家は、こういうことを分かっていたかもしれませんが、国民の大部分はそんなことを知りません。政府やマスコミのプロパガンダに流されているうちに、いつの間にか戦争に巻き込まれている。あるいは、もっとひどいことに「勇敢さ、かっこよさ」で戦争が推進される。そう言う中で、イラク戦争も、湾岸戦争も、太平洋戦争も行われてきたのではないでしょうか。これは決して「政治的な選択」とは言えないし、むしろ、選択することから国民が疎外されてきたのが今までの政治だと言えるでしょう。

これは別に、戦争推進派の人たちだけに対して言っているわけではありません。逆に、戦争推進に反対する人たちは、「平和憲法を持つ」という選択がどういうことかを、きちんと訴えてきたでしょうか。平和憲法を堅持するということは、それだけリスクを抱えるということです。本来、平和憲法というのは、平和憲法を持つリスクを踏まえた上での「選択」でなければいけない。だからこそ物語としての平和主義の意味があります。ところが、そういったことを踏まえないで、理想論だけを掲げているから、戦争推進派の人たちにちょっと批判されると、言葉を返せなくなってしまうわけです。

最近、憲法改正論議が盛んですが、結局のところ、憲法改正という「選択」が何を導くかということは全然議論されていません。ただ、惰性に流され、何かの歯車のように黙々と動いている政治があるだけです。軍備拡張を目指しているのなら、軍備拡張によって、どういう日本を目指しているのかを説明しないといけないでしょう。逆に、平和主義で行くなら、それでどういう日本を目指していくのかをきちんと説明しないといけないでしょう。それぞれ、きちんとした物語を描いてくれれば良いのです。しかし、一貫したビジョンがあるわけでもなく、ただ美辞麗句と罵声だけが交わされ、一番肝心のことは誰に触れられないまま、社会が戦争に突き進んでいく。これがまさに現代の日本の状況だと言えるでしょう。こういうとき、国民はあたかも勇敢な選択をしているように思わせられて、実は選択からどこまでも疎外されているのではないでしょうか。

5. 選ぶための方法論

選択と単なる行為の違いは、そこで自分自身がきちんと見つめられているかということです。外を散歩するのに足を動かしたり、手を動かしたりすることは、「選択」とは言いません。ところが、転職するとか結婚するとかいうとき、多くの場合、決めているという自分を自分で見つめています。こうして、一つの選択をすればこういう結果になり、別の選択をすればこういう結果になる。そのように考えられているとき、それは単なる行為ではなくて選択なのです。そこでは、いつも新しい物語が描かれ、新しい世界が始まっています。

一方、選んだつもりで実は選んでないということもあるかもしれません。たとえば、ドイツでナチス党が政権を握ったとき、ドイツ国民は主体的にそれを選んだのでしょうか。ドイツ国民は、たしかに、大きな選択をしたし、そのことにも気づいていたとも言えます。しかし、それがどういう結果に結びつくか、きちんと分かっていなかったのではないでしょうか。そして、もしそうだとしたら、それは「選んだように思わせられて選んでなかった」ということもできるでしょう。

日本でも、戦後長い間「選択」とはほど遠い、漫然とした民主主義、平和主義の時代が続いていたわけですが、今、管理社会化、軍国主義化が急速に推し進められています。たしかに、これはある意味、国民の「選択」だという見方もできるでしょうが、本当に国民は選択しているのでしょうか。むしろ、単に政府やマスコミの宣伝に流されているだけで、選択することの意味に気づいていない。別の言い方をすれば、選択をしていないとも言えるわけです。まさに、ナチス党が政権を取り、戦争に向かっていたドイツと同じようなことが、今の日本で起きているのではないでしょうか。

たとえて言うなら、今の政治の状況は、うちひしがれて選択する気力を失い、ただ死を待つだけになった人と同じようなものと言えるかもしれません。私たちは選択することから疎外され、ただ状況に流されているだけです。しかも、今の政治の状況に嘆いている一人一人の人間も、また、自分の生き方の中で「選ぶ」ことから疎外され、ただ、どうすることもできずに生きているのです。

誰もが選択することから疎外されている。疎外されているから、時には大きな声で叫んでみたくなるけれど、状況は何も変わりません。政治も、そして私たち一人一人の人間も、何かの道具となり、歯車の一つになってしまっている。どうやっても減らない犯罪に頭を悩ませている人も、いつ起こるとも分からない戦争の危険に国民が無関心であることに危機感を持っている人も、日本の軍国主義化や管理社会化を嘆いている人も、自分の生き方に悩んでいる人も、とにかく、あらゆる人が選択から疎外されている。それが今の政治の状況と言えるでしょう。

では、どうすれば良いのでしょうか。選ぶとは自らを見つめることです。自分について「知る」ことによって、私たちは自分の手に「選ぶ」ことを取り戻すことができるからです。ただ、「自分について知る」とは言っても、自分の身長を測ったり、人口統計をしてみたところで、「選ぶ」ことにはたいして役に立ちません。私たちが「選択」をするとき、そこで知らなければいけないのは、「問題の背景に何があるか」であり、これを知ることこそが「選ぶ」ことを私たちの手に取り戻すために必要なことなのです。そして、こうして「問題の背景に何があるか」を理解するための方法論こそが、「情報学」なのです。

方法論とは、別の言い方をすれば武器とも言えるでしょう。それは、私たちが生きていくための武器であり、社会や政治の問題を分析し、解決の道筋を探るための武器です。ただし、この武器は、決して「何か」と闘うための武器ではありません。その武器が向けられるのは、常に自分自身だからです。自らが「選択する」ということと向き合い、問題を解決するための武器、それが情報学だということができるでしょう。

選択とは今までの自分の物語を壊して、新しい物語を描くということ。だから、情報学的な方法論で自分と向き合うことは、いつも辛いことです。しかし、だからこそ、そこから私たちにとっての、そして社会にとっての新しい物語が始まるのです。それは、新しいけれど、どこか懐かしい物語。ちょうど、新しい恋の始まりのように。

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著作権とは何なのか?―共約不可能な価値の対立の問題として

経済・政治・国際 | 2007/02/03

最近、「著作権」の横暴が目立っている気がします。これは、「著作権」に対する無理解が原因とも言えるものです。著作権に対する最大の誤解はそれがモノに対する権利と同じような絶対的な権利だとする見方。本来、著作権は、どちらが正しいと順序をつけられないような複数の価値の対立の中で成り立っているものであって、厳密に解釈したら、明らかに間違った結論になってしまうものです。ところが、あたかも「モノ」に対する権利と同じように著作権を考えてしまうために、さまざまな問題が起きているのです。

今回の記事では、そもそも権利(権原)とは何なのかということを含め、著作権について考えたいと思います。

<筆者の専門は情報学であって情報法ではありません。このため、この記事は、法律に関する解説記事ではなく、法律を含む規範そのものについてメタな立場から説明する記事であることを最初に確認しておきます。>

著作権は、しばしば知的所有権の一種と言われます。ただし、著作権は実体的なモノに対する権利(通常の所有権など)とは本質的に異なるということには注意しないといけないと思います(。

たしかに、著作権は通常の所有権と共通する面もあります。たとえば、ある人が本を売ったとき、本に対する所有権は相手に渡ったと同時に失われるわけですが、この場合、本に対する権利の有無について曖昧さが残ることはありません。

もちろん、同じことを、著作権に対して考えることはできます。たしかに、本の著作権を人に売れば、著作権は相手に渡って、売った人には残らない。ただし、権利が及ぶ範囲とその性質には、先ほどと大きな違いがあるのです。本の場合、権利が及ぶのは、その本という物理的な実体に限定されますが、著作権の場合、社会全体に及ぶという違いです。そして、本の場合は、それを絶対的な権利だと考えてもほとんど問題が起きないが、著作権の場合、絶対的な権利だと言ってしまうと、その時点で別の問題を引き起こしてしまうという特徴があります。別の言い方をすれば、著作権は異なる共約不可能な複数の価値(どちらが正しいと順序をつけられないような複数の価値)の間で、その折り合いをつけるような形で成立している権利であり、そもそも絶対的なものと解して良いものではありません。ここでは、こういった著作権の成立そのものにまつわる本質的な問題について考えていきたいと思います。

ちなみに、この記事では著作権法について読者がある程度知っていることを前提に説明するので、条文を一つ一つ引用したりしません。リンクを貼ったので、必要な場合は、直接確認してください(*1)。

(1) 私的利用

ある人が家に本とコピー機を所有していたとします。この人が、ある本に論評のための書き込みをしたり、順番を並べ替えて整理するために、本のコピーをしたとします。これはどう考えても、その人の家の中のことであり、他の誰にも迷惑をかけていないという見方もできるでしょう。実際、著作権法はこういうことを認めているわけですが(第三十条)、あくまで例外としてであり、逆に言うと、著作権の概念そのものはこうした私的な複製に対しても適用されると考えるは自然でしょう。

たとえば、上と同じことをコンビニのコピー機で行った場合、著作権侵害になります(第三十条)。要するにコピーしたければ、コピー機を買えというのが著作権法の趣旨。また、仲良しの小学生2人が、お気に入りの本を自宅のコピー機で複製し、それに対して交互に書き込んで勉強していたとします。これは、同条の、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」に当てはまると思われますが、これを学習塾で行った場合は、著作権侵害として訴えられることになるでしょう。

つまり、こういった立場から考えると、著作権の本質は、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」の外側と関係するような形で、著作物の複製が行われることを制限する権利だということが分かります。

では、それはなぜなのでしょうか。著作物には、経済的価値や、それが著作者の創作物であるということによる創作的/人格的価値があると言えるでしょう。著作物が無制限に複製された場合、著作者はこれらの点で不利益を受けるのであり、それを対抗するための権利が著作権です。特に、「私的利用」についての議論の場合、前者の経済的利益が問題にされていると考えられるでしょう。

上の論点もここから理解することができます。というのも、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」で複製が行われている限り、著作者は不利益を受けないが、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」の外側と関係するような形で著作物が複製された場合、著作者は不利益を受けると考えられるからです。ただし、この議論はかなり危ういものがあります。たとえば、小学生2人が家の中でコピーをする分には良いとして、5人ならどうか、10人ならどうかと考えるとどうでしょうか。無料の学習室ではどうでしょうか。先ほど挙げたように、本をコピーして書き込むという場合でさえも、その人は本来、本を2冊買って片方に書き込めば良かったという見方もできるわけで、やはり著作権者の利益を損ねています。要するに、厳密に言えば著作権者の利益に反しない複製などない。しかし、それではあまりにもプライベートな領域にまで権利が及びすぎであるため、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」でとりあえず手を打っていると、そう考えた方が正確ではないかと思います。

ここで、著作権と通常の所有権の違いが明らかになります。通常の所有権の場合、それに対する絶対的な権利があるとして、問題が起きることはほとんどありません。ところが、著作権の場合はそうではないということです。ここで、私的利用を保護するべきだという「価値」と、著作権者の利益という「価値」は、共約不可能なものです。別の言い方をすれば、この両者の折り合いをどこで付けるかは、著作権の概念そのものから解決することはできず、他の要素を考慮して考えないといけないということ。つまり、こういった問題については、個別の事例ごとに判断は異なるわけです。

ところが、著作権が絶対的なものであるかのように考えられてしまうと、こうしたことが全く見えなくなってしまい、間違った判断を導いてしまうわけです。

(2) 営利を目的としない上演

すでに著作権が価値の対立として理解されるということは説明したので、後は他にどのような価値と対立するかということについて議論するだけです。たとえば、上記の議論は、営利を目的としない上演(第三十八条)についても成り立ちます。

ある人が家で音楽を演奏したとします。楽譜は著作物ですから、勝手に演奏ことは場合によっては著作権を侵害するとも言えます。また、CDを買ってきて演奏することは、「音」を複製しているのだから、著作権と関係しています。ただ、これらは明らかに楽譜やCDと言った商品の本来の目的に沿った使い方であり、これが著作権法で制限されることはないでしょう。一方、公園で演奏したり、家の前で演奏したりする場合は、著作権とかかわりますが、それが営利を目的としない限り、著作権の侵害にはならないとされています(第三十八条)。

そもそも朗読や演奏は、著作権者が規制できるようなものではなく、個人の自由だとも考えられます。憲法に保障された「表現の自由」を踏まえてもある意味当然のことと言えるでしょう。

一方、ホテルのロビーにピアノが置いてあり、そこにたまたま来た人が演奏した場合はどうでしょうか。これは著作権侵害とされる可能性が高い例です。というのも、ホテルは営利を目的として営業しているのであり、そこにたまたま来た人が演奏した場合でも、それによってホテルの利益につながると考えられるからです。「たまたま来た人」の場合は微妙ですが、「特別に呼んだ人」の場合は著作権者の許可が必要になると考えるのが通例でしょう。一般的には、飲食店を含め、営利を目的とする場において、上演するときは、著作権者の許可が必要だというのが通常の解釈のようです。

ただ、著作権法の「営利を目的としない上演」をどこまで広く解するべきかはかなり微妙ではないかと思います。たとえば、公園で演奏し、カンパを募ることは厳密には「営利を目的としない上演」とは言えないでしょう。しかし、こうしたものを一つ一つ規制するのはどう考えても表現の自由を否定しているとしか思えません。さらに、演奏の音が漏れ伝わってくる、ピアニストの家の隣に飲食店を作って営業することは著作権を侵害しているでしょうか?オーナーの息子が店の奥で弾いているギターを聞くことが目的で客が集まってくるとき、営業を続けるためには著作権者の許可が必要でしょうか?著作権法を厳密に適用すれば、公共の場では無断で鼻歌を歌うことすら著作権者の許諾が必要で、場合によっては逮捕されるということになるわけですが、これは明らかに異常な世の中です。

つまり、コンサートでの著作権ならともかく、飲食店での演奏を著作権法で縛ること自体、難しい問題を抱えていると言うこともできるわけです。実際、日本では多くのジャズバーが莫大な著作権の支払いに耐えられずに、閉鎖に追い込まれているという現実があります。著作権法の大きな目的が「文化の尊重」だということを考えると、何とも言えないところでしょう(*2)

また、営利だということに争いがないとして、著作権侵害となる演奏をしているかどうかの立証責任を店側に持たせるのか、著作権者に持たせるのかも問題です。立証責任が店側にあるとしたら、事実上、表現活動をすることそのものを否定することになってしまうでしょう。最近話題のデサフィナード事件では、まさにこういうことが問題になっているわけです(*3)。

もちろん、著作権者の利益を守ることには価値があります。一方、「表現の自由」を守ることにも価値があり、これも共約不可能な価値の対立です。著作権者の利益という価値の方だけを追求していけば、新しい文化が生まれることすら制限することになる。ところが、著作権という権利が、モノに対する所有権と同列で扱われてしまうと、こういう一番本質的な部分が全く見えなくなってしまうのです。

/////

以上、2つのことを例として説明しましたが、これは、他のさまざまなところに成り立つ問題です。

たとえば、私信に対して絶対的な著作権が成立すると解する判決がありますが(*4)、私信によって相手を罵倒したり、人格を傷つける発言をされた人がいたとして、それを公表してはならないとするなら、相手に対して対抗する手段がなくなることもあります。また、社会的意義のあるような問題についての私信を公表してはいけないとするのは社会正義に反するということもできるでしょう。

また、著作権延長論も問題です。特許権の例を考えても分かるように、知的所有権は、ある期間認められる一方、それ以降は認められないということで、産業が活性化されるものです。これも共約不可能な価値の対立の一つの例で、やみくもに著作権期間を延ばせば、自由な文化、産業の育成が妨げられるのは言うまでもありません。(*5)

本来、文化や知識は社会に共有されることで始めて次の創造に結びつくという性質を持つものです。たしかに、著作者の権利を認めることも必要だとしても、それを際限なく認めると、実質的に新しいものが生み出されることを規制していくことになってしまうのです。これは広く言えば、文化的共有地(コモンズ)を守るべきだという価値と、著作権の価値が対立するという問題として理解されます。こうした文化的共有地も著作権にからむ「共約不可能な価値」の一つと言えるでしょう。(*6)

いずれにせよ、あたかもモノと同じように著作権をとらえてしまうと、そもそも著作権を尊重することに、あるいは尊重しないことにどういう価値があるのかという、問題の本質を見失ってしまい、おかしな判断を導いてしまうのです。著作権は、「著作権者の利益の尊重」という価値とそれと共約不可能な多数の価値との間で成り立っていると解するべきであって、通常の所有権と同じような絶対的な権利として解するべきではありません。ここまでに論じてきたさまざまな問題も、全てことのことから理解することができるでしょう。

さらに大きな視点で言うと、一般に、あらゆる権利は、こうした価値の対立の中で成立しているものです。そして、法律や判決は、こうした価値の対立の中で、あるものを尊重することとして理解されるべきなのです(*7)

最近では、知的財産戦略本部によって、今までの硬直的な著作権法の運用が若干改善されるような気配がある(*8)一方、デサフィナード事件などを見ると、法律に関わる人たちが、こうしたことをあまり理解していないように思えることがあります。著作権を絶対的な権利と考えてしまうと、行きつくところは、一部のメディア企業が全てを管理するような超管理社会であり、音楽を演奏することすら、一つ一つ規制されないといけなくなるのです。こうなっては、新たな知的財産は生み出されるどころか、かえってそれが妨げられることになるわけです。(*9)

一方、著作権の横暴に反対する人たちも、著作権にまつわる問題が本質的に「価値の対立」に起因する問題だということに十分に知っているとは思えません。「価値の対立」を理解するとは、相手の立場を理解するということでもあり、議論を有意義なものにしていくために必須の条件なのです。ところが、今までこういった議論はなされることはほとんどありませんでした。

世界から音楽や文化を撲滅させないためにも、多くの人にこうした著作権の本質を知ってもらい、より良い形で著作権が運用されることを願うものです。

*1
著作権法全文
http://www.cric.or.jp/db/article/a1.html

*2
http://news.braina.com/2007/0123/enter_20070123_002____.html
http://oka1in.at.webry.info/200701/article_2.html

わずか33席のバーで音楽を演奏するのに、840万円の著作権使用料、ついでに逮捕というのは、尋常ではないと思います。法律を守らなかった経営者を責める前に、法律そのものを見直す時期に来ているのではないでしょうか。背景には、JASRACが天下りによる巨大利権団体であるために、どうすることもできないという現状があるようです。

*3
デサフィナード事件
http://www.j-cast.com/2007/02/03005314.html
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/911139.html
http://tatuya215.exblog.jp/4664061/

追記:
これについてはこのブログでも独立した記事として取り上げました。

重要 君のくちびるを逮捕!―デサフィナード事件を考える
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_c559.html

*4
私信無断掲載事件
平成8年4月26日
 高松高裁 平成5年(ネ)第402号 損害賠償請求控訴、同付帯控訴事件
http://www.translan.com/jucc/precedent-1996-04-26.html

*5
関連記事
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20070121/117338/

こういった問題に対して、知的財産戦略本部が対応できるとは、到底思えません。

*6
文化的共有地の重要性そのものは、「アンチコモンズの悲劇」として広く知られていることです。ただし、「共約不可能な価値の対立」としてとらえる議論は少なくとも日本では紹介されていないと思います。この記事は、文化的共有地の問題を含め、著作権について広く論じるものです。

アンチコモンズの悲劇?-知識の私有化の光と影-
http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0016.html
"Free Culture" Lawrence Lessig(日本語字幕付き)
http://ittousai.org/lessig/lessig_free_culture_japanese_1.1.swf

*7
これは情報学の基本的な主張の一つで、私が今回の記事で一番主張したいのも、このことです。このブログでは、以下の記事で大まかなことを書かせてもらいました。

規範とは何か
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_ed02.html

*8
知的財産戦略本部
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/
新聞記事
http://news.braina.com/2007/0123/move_20070123_001____.html
http://www.ipnext.jp/news/index.php?id=716

*9
著作権と財産権の関係についていくつかのブログで取り上げられているようです。最初に書いたように、この記事は法律についてのものではないので、著作権は財産権かという問題については中立です。しかし、法律についての解釈論以前に、著作権と他の財産権を区別しないといけないのは大前提としないといけないでしょう。その上で、著作権を特殊な財産権とした方が良いのか、そもそも財産権と別にした方が議論されるべきだと思います。

著作権は財産権ではない/池田信夫 blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/d/20061218
著作権は財産権である/ナガブロ
http://nagablo.seesaa.net/article/29933684.html

○関連ブログ・サイト

日本でGoogleやYouTubeのようなベンチャービジネスが生まれない訳/株式日記と経済展望
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/m/20061218
著作権は財産権ではない/池田信夫 blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/d/20061218
"Free Culture" Lawrence Lessig(日本語字幕付き)←非常におすすめ
http://ittousai.org/lessig/lessig_free_culture_japanese_1.1.swf

○関連記事

この記事で一番伝えたかった、「価値基準の対立」ということについては、簡単ではありますが、以下の記事で書いています。

重要 規範とは何か
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_ed02.html

さらに、政治や政策決定の場で、価値の対立として問題を理解することの意味については、以下の記事で書かせてもらっています。

重要 物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

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