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[映画]人生は、奇跡の詩

映画・テレビ | 2007/01/20

一言で言うと、世界再生の物語。グローバリズムにささやかながら、力強く抵抗する、愛の物語です。戦争、宗教といった重いテーマを扱いながら、監督が扱っている問題意識は、どこまでも明確。どんな高尚な政治哲学も、倫理原則も無力になるような「戦争」という現実に対し、ただ一つ立ち向かえる武器、それが「愛」だというメッセージです。

原題は、「虎と雪」というラブコメディ。
とりあえず最初に言っておくと、
「人生は、奇跡の詩」というタイトルが思わせるような、
B級映画ではなく、ちゃんとした映画です(笑)。

ほんとは、12月の封切り日の翌日に見に行ったのですが、
ブログを始めたのが最近なので、今ごろ記事を書いています。

とにかく、泣いて泣いて…、泣きました。

だいたい、見に行ったきっかけが変わっています。

ネットで公開されている、予告編ってあるじゃないですか。

http://www.movie-eye.com/jinsei/

要するに、これ(↑)。
ほかの映画について調べてるうちに、
たまたま、この映画の予告編を見たのですが、
予告編みながら、泣いちゃって泣いちゃって(笑)。

で、封切りを見たら、何とその日だったのです。
いやぁ、こうなったら、とりあえず見に行くしかないでしょ。
すぐにでも見に行きたかったのですが、
その時点で、もう深夜で、映画館は閉まっている。
何とか次の日の予定を調整して、
封切り二日目に、映画館に向かうことにしたわけです。

なんだけど、もぅ…、映画館でも泣き続けました。
冒頭の何でもないような場面で泣いて、
隣の初老のカップルを始め、周りの人がみんな笑ってる場面でも、
一人で泣いてた(笑)。
ほんと、バカですね。
一人でラブコメ見に来て、泣いてる男って、痛いなぁ^^;
きっと、周りの人からは変人扱いされていたに違いありません。
でも、そのくらい感動した映画だったわけです。

で、自分がこの映画に、それだけ感動したのは、
若干、個人的な体験があります。
知っている人は少ないと思いますが、
自分が今の研究―情報学の研究をしようと思ったのは、
2001年、9月11日のアメリカ同時多発テロがきっかけとも言えます。

そのころ、自分は薬学部の大学院にいました。
生物学の研究をしていたのですが、
毎日の生活がルーチンワークなのに加え、
たとえ研究がうまくいっても、
生物学の全体からすると、ごく小さな分野しか扱えない。
そういう生活に限界を感じ、
研究もほとんど身に入っていない状況だったのです。

崩壊するWTCの生中継を見ながら感じたことを、
ここで簡単に書くことはできません。
その背景には、今までアメリカが世界でしてきたことがあり、
宗教の対立があり、
そして、人間の性質、愚かさとでも言うべきものがある。
一言で言えば、
さまざまな矛盾によって、
ずたずたに引き裂かれた世界、
その象徴が、崩壊していくWTCではないかと思ったのです。

ただ、そこで自分が感じたもう一つのことのは、
そうした世界が再生する道が、
必ずあるということでした。
これは、理屈ではなく、
ただ、その時そう感じたことです。

そういえば、もともと自分が高校生ときに、
大学に行って生物学の勉強をしようと思ったのは、
「生命」をキーワードに、
人間や社会について考えようとしたからじゃないか。
だけど、いつのまにか、
最初と違う方向に行ってしまった自分。
もう一度原点に返って、考えてみよう、
そう言う中で、今の大学院に移り、
情報学という研究をするようになりました。

しかし…、
誰もが知っているように、
それから状況が急に変わったということはありません。
それ以降、「対テロ戦争」が叫ばれるようになり、
イラク戦争が起きました。
日本政府も、日本のマスコミも、
アメリカの戦争を支援するばかりで、
疑問の声すらほとんど聞かれません。
日本のマスコミが、この問題について、
ある程度冷静に報道するようになったのも、
つい最近のことではないでしょうか。

そんな中、
自分の生活はどうでしょう。
情報学の研究も前より進んできてはいるけれど、
社会に影響を与えるにはまだ時間がかかるし、
毎日、面倒な概念整理をやっていると、
時には投げ出したくことだってある。
薬学部の時ほどではないけれど、
やはり、限界を感じることだってあります。

そんなときに出会ったのが、この映画だったのです。
予告編で、無条件に泣いたのは、
きっと、この映画が「イラク戦争」という
現実をモチーフにしたものだったからでしょう。
自分にとって「イラク戦争」は、
今、自分が生きて、ここにいるということ、
たとえば、こうやって情報学のブログを書いていることと、
一番かかわる重要な問題だからです。

「イラク戦争」という現代の社会の縮図のような問題に対して、
監督のロベルト・ベリーニが送るメッセージはいったん単純。
それは、アッティリオのヴィットリアに対する「愛」です。
コミカルなまでに(というかそもそもコメディですが^^;)、
一途なヴィットリアへの「愛」。
ベリーニは、きっとこの「愛」に、
単なる男女の愛ではなく、
もっと違うものを見いだしていたのではないでしょうか。
どんな高尚な政治哲学も、倫理原則も、
無力になるような「戦争」という現実に対し、
ただ一つ立ち向かえる武器、
それが「愛」だというメッセージではないかと思うのです。

もちろん、自分は「愛」で全てが解決すると
思っているわけではありません。
また、そうじゃなくても「愛」という言葉を
研究上使うことは今のところありません。
しかし、どんな大きな問題を考える上でも、
人が人に共感し、好きになる。
結局のところここに返ってくるしかないということは、
痛いほど知っている。
だから、ベリーニのメッセージには根底的なところで共感するわけです。

その意味で、この映画は、ラブコメディであると同時に、
痛烈な現代社会への批判であり、
また、同時に、どうしょうもなく不条理な現実に、
どうすれば良いか分からずに途方に暮れている私たちへの
エールではないかと思います。
そういう意味で、この映画は、「世界の再生の物語」とも
言えるかもしれません。
ネタバレになるので、これ以上は書きませんが、
一度見た人なら、このことが分かると思います。

自分がこの映画の向こうに見たのは、
9.11のあの日、WTCの向こうに見たものと同じものと言えるかもしれない。
ほんと、最後のところは、泣いて、泣いて、泣きました。

まぁ、以上が自分が感動した一番のポイントだったと思います。
結局、全てがここに行きつくわけですが、
ほかの、若干細かいポイントについても書いておきたいと思います。
内容については、
公式サイトのストーリー説明でも扱われていることがメインだし、
「普通に見ると見逃す」ことが中心なので、
ネタバレの心配はありません。

1. 世界のあらゆるものに詩が宿っている

大学教授であるアッティリオが学生たちに教えることです。
実は最初に泣いた箇所はここです。
まぁ、詩人だったら誰でもいいそうなことだし、
普通にコメディタッチで言われているだけなのですが、
映画全体のテーマがテーマだけに、
いろいろ考えてしまいました。

情報学的に言えば、世界のあらゆるものは情報であるわけですが、
その情報を出発点に世界を考えていける。
いわば世界のあらゆるものは「詩」であり、
また一つの世界を作るものです。

ちょっと分かりづらいと思うのですが、
これと正反対なのが、
「たった一つの世界についての詩を書いていく」というような態度です。
これが、グローバリズム的な詩への態度だとすると、
アッティリオの詩は、
こういった見方に正反対の見方を提示するものです。
このセリフは、
さりげないながら、こういう問題意識を踏まえており、
そこから、ヴィットリアへの「愛」までつながるのではないかと思います。

2. 言葉は通じないかもしれないが、アラーの神にもお祈りしよう

イラクに行ったアッティリオが、
どうすることもできなくて言うセリフです。

このセリフ、かなり強烈で、かなり泣きました。
歴史をたどれば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、
同じ宗教が分かれたものと言われています。
要するに、これらの神は、
もともと同じもので、
解釈の違いによって分かれたとも言えます。
その宗教がいがみあい、戦争を起こしている。
このセリフには、控えめながら、
こういう問題意識があるのではないかと思います。

イラク戦争は、単に宗教の対立で起きた戦争と言うわけには
いかないと思いますが、
宗教の対立という側面があるのも事実です。
この映画では、こうした宗教の問題を扱いながら、
最終的に、ヴィットリアへの愛にまとまるような形で、
解決を提示しているわけです。

3. やさしいウソ

ライフ・イズ・ビューティフルを見てから、
この映画を見た人なら、
気づいたと思いますが、
この映画では、いたるところで「やさしいウソ」が
テーマになっています。
分かりやすいところでは、老人が失明した振りをするところがありますが、
これは次の流れの伏線になっています。
これ以上書くとネタバレになるので書きませんが、
こういう視点で、この映画を見ると、おもしろいと思います。

ベリーニが「やさしいウソ」を扱うのは、
単なるコメディとしてではなく、
おそらく、西洋の教条的な規範意識に対する反発が
前提になっているのでしょう。
だとするとで、実は、このことは、
映画全体の主題とも密接にかかわるものであり、
「戦争」という問題、
あるいはヴィットリアへの愛にまでつながる、
重要なものではないかと思います。
正直言って、自分は「やさしいウソ」でもかなり泣きました。

4. 詩集のタイトル

これは、感動ポイントというわけではないし、
普通に見て分かる人も多いと思います。
ただ、日本語版だと分かりづらく、全体のストーリーの理解に
支障が出る場合もあると思うので、一応書いておきます。

主人公のアッティリオは、大学教授で、
大学で詩を教えていますが、
彼が出した詩集のタイトルが
映画の原題でもある「虎と雪」です。
ヴィットリアは、「パリに雪が降って、虎を見たら、あなたと結婚するわ」
というのですが、
これは、この詩集のタイトルを使ったもの。
原題の「虎と雪」を知っていれば分かると思うのですが、
普通に映画だけ見ていると、
何だか良く分からない人もいるのではないかと思います。

ちなみに、このタイトルのメタファー(暗喩)が何なのかというのが、
ネット上で話題のようです。
文化的な背景等は分かりませんが、
この映画を「世界再生の物語」として見るのなら、
虎がグローバリズム(アメリカ)で、
雪が愛ではないかと思います。

とにかく、続きは映画館で~。
てか、この長い文章をここまで読んで、
見に行かない人はいないでしょ(笑)。

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情報の意味と情報学の諸領域

情報学 | 2007/01/20

今日は、「情報」は、そのとらえ方によって、大きく2つに分けることができるという「2つの情報」という話と、それを踏まえて、「情報学」が対象とするのはどういう分野で、そこにどういう共通点があるのかという話をしたいと思います。

(1) 情報の意味と2つの情報

私たちが「情報」という言葉を使うとき、そこに大きく分けて2つの意味を込めているのではないでしょうか。一つが、「ニュース」「知らせ」「インターネット上の情報」と言うときの「意味が問題にされる情報」で、もう一つが、情報処理、情報通信における「意味が問題にされない情報」です。「意味が問題にされな情報」では、、何バイト、何メガバイトというように、量を測ることができますが、「意味が問題にされる情報」は、同じように量を測ることができません。

ただ、こう言われても、あまりピンと来ない人もいるのではないでしょうか。それは、私たちが「情報」というとき、たいてい、この2つがごっちゃになった形で使われているからです。

たとえば、「A社が倒産しそうだ」という情報と、電話帳一冊分の情報を比べたとき、どちらにたくさんの情報が含まれているかということを考えます。情報処理の分野で扱われるような「情報量」の概念から言えば、電話帳一冊分の情報の方が大きいことは明らかでしょう。ところが、A社と取引をしているB社の従業員にとって、A社の倒産は自分の生活にもかかわる、重要な情報です。しかも、それが一般に知られておらず、内部関係者を通してこっそり聞いたものだとしたら、その情報の重要性は非常に高くなり、どこにでも手に入る「電話帳」とは比べものにならないほど重要な情報になるでしょう。しかし、一方で、電話ボックスで電話をかけようとしている、A社と無関係なCさんにとっては、電話帳の情報は非常に重要なものと言えると思います。こうした状況で、どちらが重要かということを決めることはできません。つまり、「意味が問題にされない情報」は計ることができるが、「意味が問題にされる情報」は重要性を比較することができない。とらえる人によって、その重要性は変わるということが言えると思います。

もう一つ例を挙げます。携帯電話を使ってメールをする世代なら、「最近元気?」というメールを一度は送ったことがあるのではないでしょうか。おそらく、こうしてこの文章を読んでいる今も、日本中で「最近元気?」というメールがたくさん送られています。さて、メールのデータは、全て、いわゆるJISコード、ISO-2022-JPという形式で送られているので。「最近元気?」は、全て0と1の信号に変換することができます。「最」は、0011 1010 0100 0111、「近」は、0011 0110 0110 0001といった具合で、最終的に、「最近元気?」は、0011 1010 0100 0111 0011 0110 0110 0001 0011 1000 0011 0101 0011 0101 0010 0100となります(こうやって書くと、無駄に長くなるので、コンピュータの世界では、通常、2進数4桁分をまとめて1文字で表し、3A47 3661 3835 3524 2129と表します。これを16進数表記といいます)。いずれにせよ、日本中で送られている「最近元気?」は、全て同じ0と1に信号に置き換えられ、このために、「最近元気?」が「おやすみ」に変わることなく、「最近元気?」のままで送られるわけです。ところが、「最近元気?」が日本中で1000通送られれば、全く違う1000の状況があり、そこで意味しているところは違います。最近連絡の取れない恋人に送った「最近元気?」もあれば、離れて暮らす家族に送る「最近元気?」もあるでしょう。ここで、0と1の信号としてとらえる「最近元気?」は「意味が問題にされない情報」ですが、さまざまな状況の中でとらえる「最近元気?」は「意味が問題にされる情報」ということができると思います。

つまり、さまざまな情報は、「意味が問題にされない情報」と「意味が問題にされる情報」に分けられるわけですが、これは現実にある情報を分類して2つに分けられるという意味ではなく、情報のとらえ方に2つがあるということです。したがって、情報通信で扱う情報を「意味が問題にされない情報」とは言っても、そこで伝えられている、それぞれの情報には意味があります。一方、「意味が問題にされる情報」だと言っても、意味が問題にされない情報として送信できる場合だってあるでしょう。同じ情報を2つの視点からとらえていける、それが「2つの情報」という言葉の意味するところだと言えるのです。

ただし、「意味が問題にされる情報」は、「意味が問題にされない情報」よりも広いものを指しているということは大切です。「意味が問題にされない情報」も、「意味が問題にされる情報」としてとらえることはできますが、「意味が問題にされる情報」の場合、それが持っている意味の全てを「意味が問題にされない情報」として表すことはできないからです。したがって情報について考えるとき、「意味が問題にされる情報」を出発点にした方がより一般的な議論ができることが分かります。逆に言うと、「意味が問題にされない情報」、何バイトと表せるような情報を出発点に考えると、情報の性質のごく一部しか扱うことができなくなります。つまり、情報学では、情報には何かしら意味があると、とりあえず、このことを出発点に考えることにするわけです。

(2) 情報学の範囲と分類

さて、情報学は、情報概念をもとに対象を分析する学問ですが、ここで、対象をどのように分析すかによって、情報学は、意味を直接的に問題にしない情報学と、意味を直接的に問題にする情報学に大きく分けることができます。

まず、意味を問題にしない情報学とは、情報処理や情報通信についての学問であり、ここでは、何バイトというような「情報量」の概念が適用できるような情報概念を用い、直接的には意味が問題にされない形で情報が扱われます。

ただし、こうした学問の多くは、○○工学、○○科学などと、末尾に「情報学」を付けず、自らを情報学として規定していないことが多いのです。このため、狭義の情報学は、意味を問題にする情報学だけだと言うこともできるでしょう。しかし、多くの情報学の分野は、意味を直接的に問題にしない情報概念と、意味を問題にすしない情報概念の狭間で起きる問題を扱っており、一般的に情報学を扱うのであれば、意味を直接的に問題にしない情報学を無視することはできません。このため、通常、広い意味で情報学というとき、意味を直接的に問題にしない情報学を含めた情報学を考えます。このブログでも基本的にこの立場を取りたいと思います。こういった情報学の分野を、広い意味で「情報工学」と呼ぶことにしたいと思います。

これに対し、意味を問題にする情報学は、さらに2つに分けることができます。

一つは、意味を問題にしない情報を扱う、情報処理の技術を使いながら、それが意味を持つプロセスを問題にするような情報学です。これは、応用情報学と言われる分野であり、図書館情報学を始め、医療情報学、経営情報学、法情報学、知能情報学 どが含まれます。こういった応用情報学の分野の中には、対象を情報としてとらえることによるシミュレーションを含むもの、「意味のある情報」を「意味のない情報」として処理するための技術であるデータベースを用いて、それが意味を持つプロセスを問題にするものがあります。もちろん、応用情報学は、シミュレーションとデータベースだけを用いるものではありませんが、こういったものを用いることが多いのです。

こうした応用情報学に対し、直接的に「意味のある情報」を問題にするのが「社会情報学」と言われている分野です。社会情報学では、データベースの利用技術のような形で情報を扱うのではなく、社会における「意味が問題にされる情報」をベースにしながら、時としてそれが「意味が問題にされない情報」としてとらえられるプロセスそのものを問題にするものです。

つまり、情報学は、情報の意味をどのようにとらえるかによって、大きく3つの分野に分類できるということになるでしょう。主に情報の意味を問題にせず、純粋に情報量の概念が適用できる「情報」を扱う情報工学に対し、情報工学的な情報を扱いながらも、それが実際の場面で持つ何らかの意味を問題にする応用情報学、さらに、基本的に情報の意味そのものを問題にする社会情報学の3つです(*1)。

このように、情報学にはさまざまな分野があるわけですが、ここで重要なのは、どのような情報学の分野でも、情報概念をもとに対象をとらえるという特徴があることです。「意味が問題にされる情報」と「意味が問題にされない情報」はいずれも、対象を分析するときに有効なものであり、それぞれの分野の情報学は、扱う分野に応じて、この両者を使い分けながら、対象を分析していると考えることができるでしょう。

では、こういったさまざまな情報学の基礎となる「情報」、あるいは「意味」はどのように理解されるのでしょうか。これについて、次回以降の記事で考えていきたいと思います。

*1
3つの分野に属する情報学のさらに細かい分類については、Wikipedia「情報学」が参考になると思います。
Wikipedia「情報学」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%AD%A6

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高校の情報科目について

教育 | 2007/01/14

作ったばかりのブログが「ブログ検索」にちゃんと登録されているか見るために、
「情報学」で検索してみたのですが、ちゃんと出てました。
そんで、ついでに他のブログを見ていると、
おもしろい書き込みを見つけました。

http://tassy.cocolog-nifty.com/tassy/2007/01/229_9c72.html

> 教科「情報」の親学問「情報学」を構想中
> 情報学とは、ものごとに意味づけをするための方法に関する総合的な学びである。

この方は高校の先生なのでしょうか?
まだまだ発展途上の「情報学」ですが、
こういうことを考えている人もいるんだなと思い、心強く思いました。

最近立ち読みしたある本(*1)に、
高校に「情報」科目を作って無理にコンピュータに触らせたところで、
産業としての情報技術が発展するわけではない。
むしろ、数学や論理的思考力を鍛える基礎的な訓練をすることが重要だという
趣旨のことが書いてありました。

これは、全くその通りでしょう。
今の高校の情報科目は、コンピュータの簡単な仕組みなどを別にすれば、
アプリケーション・ソフトの使い方がメインで、
それに、ちょっとしたプログラミング、
インターネット社会でのモラルなどが、
書いてあるだけなのです。
しかし、アプリケーション・ソフトの使い方など、
そこそこの高校生なら、教わらなくても分かるし、
それ以外の部分は、薄い文庫本より内容がない。
むしろ、教わらなくても普通に分かるようなことを延々と教えている気がします。
(教えてる先生には失礼ですが…)。
あんなことやるなら、
数学とかちゃんと教えて方がいいというのはもっともです。
履修不足問題で、「情報」科目を「数学」に変えていた高校があったそうですが、
受験以前に「教育」という観点から考えても、
とてもまっとうな選択です。

ただ、「情報」について教えるとは、本来、そういうものではないはずです。
情報というのは、「意味」や「価値」に扱う問題を整理するための概念であり、
現代のさまざまな問題を解決していくための必要なものだとも言えます。
そういう意味で、高校生がもっともきちんと学ぶべきことだとも言えるのです。

上のリンク先にあったように、

> 情報学とは、ものごとに意味づけをするための方法

というような発想が、これからより一般的になれば、
日本の将来は少し明るくなるかもしれません。

* 藤原正彦「国家の品格」なのですが、
なんとなく本文で書きたくなかったので、注にしました。

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情報学とは何なのか

情報学 | 2007/01/14

ブログを始めて実質的に最初の書き込みということで、情報学とはいったい何なのかということについて考えてみたいと思います。

「情報学は、さまざまな学問のどこに位置づけられるか」という問いは、情報学そのものにとっても、きわめて重要な問いであると言えます。情報学についてのブログを始めるに当たって、この問いに簡潔に答えるのなら、情報学は要するに「手法」ではないかと思うのです。では、どういう手法なのでしょうか。経済学が「貨幣」をもとに、社会や一人の人間の生き方をとらえるための手法だとしたら、情報学は「情報」をもとに、社会や一人の人間の生き方をとらえる手法だということができるでしょう。

では、情報学は、どのような手法なのでしょうか。情報学は、もっとも表面的には、政治におけるさまざまな政策決定、企業活動上のさまざまな判断、さらに一人の人間が生きていく上での判断を、意味や価値の問題として整理し、有効な解決策を与えるための「手法」だと言えます。この意味において、情報学は、「法律学」「経済学」などと並置される社会科学だと言うことができるでしょう。

たとえば、ある政策課題についての決定をするとき、それが経済的にどのような影響を与えるか、法律的にどう解釈されるのかということを議論するのが、経済学や法律学の役割だと言えます。しかし、これらのことについて完璧に分かったとしても、実際に、どのような政策を選ぶべきか、あるいはそこである政策を選ぶとはどういうことなのかということは、相変わらず分からないままでしょう。ここで、その政策課題はどのような問題の構造を持っており、どのような議論されるべきか。どのような人の意見を聞き、どのような団体と調整をするべきか、こういったことを知るために必要なのが情報学という学問なのです。

これは、政治や企業活動に限ったことではありません。経済についての理解が、現代社会で一人一人の人間が生きていく上で重要なように、情報についての理解もまた、私たちがこの社会で生きていくために必要なことです。たとえば、私たちが生きていく上での重要な判断を迫られたとき、その問題がどういう構造を持っており、どう判断していくべきかということを考えるのが、情報学の役割と言うことができるのです。

このように情報学には、社会活動あるいは一人の人間が生きることを通して評価されるべき社会科学としての側面があるわけですが、そうだとしても、情報学はいわゆる一般的な意味での社会科学とは若干異なるものであり、単純に、情報学を社会科学と言うことはできないでしょう。というのも、情報学は、一般的に私たちがイメージする「社会科学」よりもはるかに広い問題について扱うものだからです。

まず、一般的に知られるように、「情報学」は、情報工学や計算器科学など、情報をデータとしてとらえ、その処理方法を考える学問を含んでおり、この意味で、自然科学的な問題関心を含んでいます。

一方、情報学は、心とは何か、言語や規範、倫理とは何か、手法やモデルとは何なのか、科学とは何で、それは社会の中でどのように位置づけられるのか、あるいは、グローバル化、コントロール社会、管理社会などと言われる現実とはいったい何で、これにどのように対処していけば良いのかを考えることは、それぞれ情報学の大切な役割の一つです。これらの問題の多くは、従来、哲学や思想の領域に属するものと思われてきたものです。

このことは情報学がどのような「手法」であることかを、明確にする上で重要な意味を持っています。かつて、「物質がどのような要素によって構成されているか」「光とは何なのか」というようなテーマは、純粋に哲学的な問題であったわけですが、現在、こういった問題を直接的に考えている哲学者はいないでしょう。自然科学は、従来「哲学的」と思われていた多くの問題を、哲学の外の領域に持ってくると同時に、「哲学」の枠組みそのものに大きな変更を加えてきたのです。そして、これに由来するのが、近代哲学だと言うことができるでしょう。

ここで情報学の出現は、こうした自然科学の出現に匹敵するできごとだと言うことができるかもしれません。それは、従来、哲学や思想の領域だと思われてきた問題を、その外に引きずり出すと同時に、哲学や思想の枠組みそのものに変更を加える可能性があるものだからです。

西垣通は、情報学の出現による世界のとらえられ方の変化を、言語論的転回に対する情報学的転回―すなわち、言語から情報へという世界観の変化―として規定したわけですが、この意味で私は同じ「情報学的転回」という言葉に、もう少し違う説明をつけ加えたいと思います。それは、「情報学転回」が、「転回」という言葉が指し示す、より古いできごと、「コペルニクス的転回」に対応するものだということです。といっても、ここでこの言葉が指しているのは、単に哲学に起きた変化としての「コペルニクス的転回」ではありません。むしろ、地動説に象徴される近代科学の出現と、それに由来する世界観の変化の全体として、「コペルニクス的転回」。これに匹敵する大きな世界観の変化が、「情報学」の出現を出発点とする「情報学的転回」と言えるわけです。

繰り返しになりますが、情報学は哲学ではありません。情報学が導く思想上の変化そのものは、情報学が語りえぬものであり、情報学はそこに言及することができないからです。すなわち、情報学は世界をとらえるための一つの手法に過ぎない。しかし、情報学の手法は、社会における政策上、企業活動の決定や、一人の人間の生き方について考える上で重要なだけでなく、哲学や思想上の重要な変化を導くものになるでしょう。その意味において、情報学は手法であり、手法に過ぎないわけです。

参考文献

『基礎情報学―生命から社会へ』西垣通
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4757101201?ie=UTF8&tag=informaticsco-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4757101201

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情報学についてのブログを始めてみる

情報学 | 2007/01/14

情報学についてのブログを初めてみました。

情報学は、「世界を情報の立場からとらえる」ことで、情報についての諸学問を整理するのはもちろん、政治や企業におけるさまざまな政策決定、さらに一人の人間が生きていく上での判断を、意味や価値の問題として整理し、有効な解決策を与えるための学問です。

一言で言えば、情報学は、自分が生きている世界をとらえるための学問。自分が生きているこの世界について、適当に書きつづっていければと思います。

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