科学とニセ科学の関係

ニセ科学批判は、科学と同様にそれ自体が目的ではなく、道具にしかすぎない。科学が悪用されると、甚大な被害が人々にもたらされるのと同様に、ニセ科学批判も悪用されると、ニセ科学よりも大きな被害をもたらすおそれがある。もちろん、ニセ科学批判の善用もありうるので、善用は肯定するとして、悪用については批判するということになる。

ニセ科学批判の善用・悪用/社会学玄論

自分は「科学」を客観的・絶対的に肯定するつもりはありませんが、それでも「ニセ科学」には批判的です。

たしかに、引用した「社会学玄論」の記事にあるように、科学というのは、普遍的・絶対性な正しさを持つものではありません。しかし、それは現代社会に生きる私たちにとっての「言葉」であり、現代社会が共有する「認知世界」でもあります。一般に、ある事実や説明が「科学的であるかどうか」は時代とともに変わるものであり、普遍的な「科学的事実」などないわけですが、それぞれの時代の研究の動向に即して、それぞれの時代における「科学的事実」があると考えることができます。

こうした「科学」と反するものに対して、科学の側から「それは科学ではない」するのは至極当然のことでしょう。ただし、科学というのは、「それは科学で説明できない」ということを主張することができても、「科学的にありえない」ということはできません。「科学的にありえない」と言えたとしたら、それはせいぜい「今の科学では経験的にそう考えた方が良いとされている」という意味であり、論理的な意味で「科学的にありえない」と言うことはできないのです。

さて、「ニセ科学」というのは、字義通りに言えば、科学ではないにもかかわらず科学であると主張するような理論のことです。これは科学的に間違いであることが示すことができます。ただし、そこで示されるのは、ニセ科学が「科学的にありえない」ということではありえません。すでに述べたように、「科学的にありえない」という主張は科学的な主張ではないからです。しかし、ニセ科学批判は、その時代の科学に基づき、ニセ科学が「科学的な主張ではない」と主張することはできます。「ニセ科学批判」がこうした自身の限界について理解しているとき、それは「科学的」に(=科学という視点に立てば)正しいものだし、人間にとって有効なものではないかと思います。

たしかに、一部の「ニセ科学批判」が「科学的にありえない」という主張と、「科学的な主張ではない」という主張を混同しているのは事実だと思いますが、「社会学玄論」の記事のように、ひたすら相対主義的な立場を取ることは(理論的には可能でも)、あまり有用な考え方とは思えません。

むしろ、この手の、通俗的な相対主義の見方は、実は「普遍的な真理」の存在を無意識のうちに前提にしていると思います。たしかに「普遍的真理」を仮定するのなら、その立場から見て、科学とニセ科学はどちらが正しいというものではないということになるでしょう。しかし、私はそうは考えません。「真理」そのものが、何らかのコミュニケーションの単位の認知世界(たとえば、科学コミュニケーションシステムの認知世界)においてしか成立しない以上、「普遍的な真理から見たら、どちらも相対的」という通俗的な相対主義の言説自体が意味のないものだと思うからです。「科学」は論理的には一つに視点に過ぎないが、現代社会では有用なものとしてたしかに成立しているもの。そのことを認めた上で、その立場から何が議論できるかということを考えた方が有意義な議論が可能になるのです。

自分が「情報学」として構築しようとしているのは、こうして「問題によって自在に準拠軸を設定しつつ、適切な議論を行っていく」ことを可能にする思考のフレームワークです。ニセ科学の問題は、こうした自分の立場を端的に表していると思い、取り上げさせていただいたものです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

少子化と子育ての価値観

社会人向けのWEBマガジンサイト『ヨルコ×ヨルタ』を運営するサイバーマップ・ジャパンは16日(月)、社会人男女を対象にした"婚活"の調査結果を発表した。同調査によると"婚活に必要なもの"は、男女ともに「積極性」(女性41%、男性42%)がもっとも多かったが、女性の次点が「時間」「運」(ともに13%)なのに対し、男性は「お金」(24%)という回答がランクイン。なかには「仕事がこの不景気で給料も安く、結婚するにもそれがネックで踏み切れないのが現状」という切実な声もあり、先行き不透明な景気不安が、男性の婚活心理に影響を与えていることが垣間見える結果となった。

男性の婚活、"経済力"が心理的重圧に

自らの「経済力」を理由に結婚したがらない男性が多いというのは良く言われる話です。この背景には、女性が結婚相手の男性に経済力を求める傾向があるということがあるでしょう。そのために、男性からすると、「お金がないと相手に高い条件を求めることができない」ということになってしまうのです。

これは、現実としては当たり前のように思うかもしれませんが、理由を考えると意外に不思議ではないでしょうか。「お金なんてなくても結婚できるじゃない」という見方もできるからです。Beckerのモデルによると、結婚は共同生活によって、生活コストを下げるためのものとして理解されます。そうだとしたら、社会全体として低所得な男性が増えたとしても、結婚市場の需要と供給のバランスで、男性に要求される所得の水準が低くなるだけであり、それが初婚の遅れを招くことはないはずでしょう。

要するに、今日の晩婚化、少子化は、Beckerのモデルに基づく自由な「結婚市場」を想定することでは理解できないのです。では、結婚市場において市場原理を妨げる要因とはなんでしょうか。もちろん文化的な要因を挙げればきりがないでしょうが、経済的な問題に絞れば、「養育に関する価値観と現実のギャップ」が重要な問題として挙げられるのではないかと思います。

今の日本では、教育を義務教育まで、食費や被服費など最低限で済ませれば、二人の大人の所得で一人や二人の子どもを育てるのは無理なことではありません。そして、それでも問題ないという価値観を持っている人(これはおそらく、親の学歴や社会階層に依存します)であれば、結婚をためらう理由はあまりないでしょう。

しかし、多くの中流階級の人々は、自ら、最低でも「ホワイトカラー正社員」以上のステータスを持つ仕事に就きたいと考え、自分の子どもにも同様の条件を満たした仕事をさせたいと考えています。ところが、今の日本で、子どもを大学に行かせて、それなりの評価を受けた大学に行かせようとすると、子どもを育てるのに必要な経済力は非常に高いものになっています。公立の小学校・中学校のみの場合と比べ、私立中学・高校、大学の学費、これに塾などの費用を加えただけで、最低一人当たり100万円/年の増加は避けられなくなるでしょう。しかも、今の日本では、親の世代(20代~30代)でさえ、「ホワイトカラー正社員」以上のステータスの仕事に就くのは簡単ではなく、厳しい競争に晒されています。こうした状況で確実に「ホワイトカラー正社員」以上の仕事ができるような教育を施そうと思ったら、必要な投資は莫大なものになってしまうのです。

つまり、「ホワイトカラー正社員以上の仕事をして一人前」という価値観を持った「中流」意識のある男女にとって、結婚相手は、この条件を満たす経済力を持っている相手に限られることになるわけですが、多くの人がそれだけの経済力を手にしていない。ここに少子化・晩婚化の原因があるのではないかと思います。

ではどうすれば良いのでしょうか。二つの解決策があると思います。一つは、「追加の教育投資をしなくても、本人の能力を活かすような教育を受けられる」ようなシステムを構築すること。もう一つは、「ホワイトカラー正社員」でなくても、安定した生活ができるような社会保障システムを構築することです。いずれにせよ、社会福祉の充実こそが、晩婚化・少子化を食い止めるために必要だということになります。今回取り上げた話は、厳密に言えば「こういう側面もあるのではないか」という仮説であり、実証的な議論ではありませんが、「少子化」の問題が、一般に思われているよりも複雑な議論だということは分かるのではないかと思います。

さて、少子化の問題には、別の複雑な問題が関係しています。純粋に日本企業の国際競争力の向上を考えるのであれば、理論上は、「移民や短期労働者を受け入れ、少子化はそのまま、福祉もそのまま」という社会が一番優れているということになるでしょう。しかし、それはあたかも人間が経済活動の手段となっているような世の中。目的と手段の関係を逆転させているような気がしてなりません。「結婚をしたい人が結婚をできる」「子どもを産みたい人が子どもを産める」ようにすることは、単に少子化を解決するためだけではなく、「人間が人間らしく生きられる社会」を作っていくためにも必要ではないかと思うのです。

自分には、こうした複雑な問題を解きほぐして全て解決するだけの知識も能力もありませんが、間違いなく言えるのは―多くの社会の問題がそうであるように―少子化の問題はまさに「価値観の問題」だということではないでしょうか。

○参考記事

[日記]高学歴女性の未婚問題/pal-9999の日記

○関連記事

秋葉原通り魔事件と負け組とニートと/情報学ブログ
→「ホワイトカラー正社員」という価値観の問題について、少し前に書いた記事で、この記事の内容と深く関係しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

正論原理主義という病

ウェブを中心に受賞辞退を求める動きもあったが、パレスチナで起きていることへ関心を集めた点で「有意義」な問題提起だったと見る。他方、「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている。

村上春樹さんがエルサレムに行った理由 誌上で告白

村上春樹の「正論原理主義」という言葉が、一部のブロガーから反発を受けているようです。自分はそのことをとても悲しく思っています。ネットの言論は、せいぜいその程度なのかと幻滅することになったからです。

「正論原理主義」という言葉を、ネット空間に慣れた人に説明するには「マスメディアが一方的に何かを攻撃するときの態度」というと分かりやすいでしょう。ネットコミュニケーションにおいて、マスメディアの報道姿勢は、しばしば「偏向」と言われますが、これは半分正しく、半分正しくないと思います。彼らは彼らで「客観的」な正しさを追求した結果、あのような報道を行っていると思われるからです。私たちはある固定したコミュニケーションの中で事実を理解しようとすると、しばしば一つの見方にとらわれたものになり、「原理主義的」、さらに言えば、「偏向的」なものになっていきます。マスメディアが「偏向」しているように見えるのは、まさにこうした「正論原理主義」の結果にほかならないのです。

この説明でもまだ分からないというのなら、アメリカの大量殺戮に対抗するために同時多発テロを起こした(と言われる)テロリスト、あるいはそれに対抗するために戦争をしかけたブッシュのアメリカも、「正論原理主義」と言えるでしょう。彼らも自分なりの「正義」を振りかざしているのであり、「正論」かどうかに関して批判することはできないと思います。

これは、ネット空間においても全く同じです。先日、自分が書いた記事に対して、たくさんのコメントをいただきました。自分が書いた記事は社会的に利害が対立する問題に対して、双方の主張を踏まえて結論を出すというものだったのですが、コメントのほぼ全ては一方的に関係者を攻撃するものだったのです。それらのコメントは全て、私の結論に賛同を示すものだったのですが、コメントに目を通しながら、ものすごく悲しい気分になりました。マスメディアに対する「偏向」という批判は、ネット空間にブーメランのように返ってくるということを忘れてはいけないのです。

村上春樹の「壁と卵」の譬えは、「なんだかあまり良くない譬えだな…」と思ったので、リアルタイムでコメントしなかったのですが、「壁」が意味しているのは、こうした「固定した視点」「固定した価値観」にほかならないのではないかと思います。これは、村上氏が「制度」や「暴力」ではなく、わざわざ抽象的な「システム」という言葉を選んだことから明らかでしょう。あらゆるシステムは、固定化する傾向がある。具体的に言えば、政府もマスメディアも、そしてネット空間も「壁」になりえるのです。「壁」は私たちの心の外側になるものではなく、私たちの心の中にある。ネットにしてもマスメディアにしても、そのことに気づいたとき初めて、「壁」(=原理主義的思考)を克服していくことができるのではないでしょうか。

しかし、以下のような教養のかけらもない批判が受けていることを思うと、そうした時代が来るのは、まだ遠い未来のことのように思えてきます。

「正論」の反対語が誤論なのか、邪論なのか知らんが、芸のない正論が芸術的観点から面白くないと批判されることは十分ありえるとしても、正論が正論であることを主張するという当たり前の態度を、あろうことか原理主義と呼んで恥じないその精神構造はどうなっているのだろうか?

わたしとしては、「正論原理主義」という醜悪な表現は容認できない

「正論原理主義」などという醜悪な表現が卑しくも小説家の口から

この人は、内田樹氏による「壁と卵」の解説も全く理解できていないようなので、(参考)まともに取り合っても仕方ないかもしれませんが、それにしても、この無自覚さには悲しくなります。

このブログのテーマである「情報学」とは、人間のあらゆるところに存在する「正論原理主義」を克服するための学問だと私は理解しています。「正論原理主義」を克服するとは、「正論原理主義者」のように、「現実逃避」をしたり、「現実の自分を否定して、殻に閉じこもる」ことを止めて、「絶対的な自己肯定」をすること。たしかに、多様な価値観が存在している現実から目を背け、小さな正義を振りかざすのは楽です。同じような価値観を共有できる人がいれば、つかの間の安心を得ることもできるでしょう。しかし、それこそ「弱い人間」の生き方、「自己否定」「現実逃避」の生き方にほかなりません。こうした自分を克服することによって初めて、ネットにも、マスメディアにも、そして政治にも、より良い未来があるのではないかと思います。

○参考記事

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治/情報学ブログ

村上春樹「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」/活字中毒R

○追記

興味深い記事を見つけたので、追記させていただきます。基本的にこの記事と同じ趣旨のものですが、具体例などがあってとても分かりやすいと思います。

うちのこどもと、「正論原理主義」/よそ行きの妄想


お知らせ

本文で引用した「「正論原理主義」などという醜悪な表現が卑しくも小説家の口から」の記事内で、追記として再反論をいただいたので、はてな内に再々反論を掲載しました。このブログ内で紹介するようなことでもないと思うので独立した記事にはしませんでしたが、彼の記事に興味を持った方には、合わせて読んでいただければと思います。

「正論原理主義の病」に関連して再々反論

| | コメント (2) | トラックバック (0)

[ご挨拶] 累計アクセス数が30万件を突破

本日、ブログへの累計アクセス数(PVベース)が30万件を突破いたしました。2007/1/14の開設以来、一日あたり平均388件のアクセスになります。

ブログは読者の皆様とのコミュニケーションの場であり、皆様からいただくコメントやリンクを通して成長していくもの。まだ、それほどアクセスが多いブログではありませんが、ゼロから始めてここまで来られたのは読者の皆様のおかげであり、大変感謝しています。

今後とも情報学ブログをよろしくお願いします。

○参考(16:40現在のアクセスの内訳)

括弧内はPCサイト/携帯サイトの順番です。

情報学ブログ(71467/10370)
ニュースな待合室(173203/33968)
のりねこのラプソディ(8551/1850)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

[映画]存在の耐えられない軽さ

「存在の耐えられない軽さ」は、あまりにも有名な作品ですが、恥ずかしながら、最近やっと映画を見ることができました。3時間近い映画であるにもかかわらず、一瞬も無駄がなく、見ていて飽きることがありません。

さて、この物語は大きく分けて3つのストーリーの核があるのではないかと思います。それは、「恋愛」「政治」「自由」の3つです。「恋愛」と「政治」ということに関して言えば、この物語は、似たような多くの物語の一つと言えるかもしれません。しかし、それを「自由」というキーワードで結びつけたところに、この物語のおもしろさがあるのです。そして、最後の「自由」の問題が、哲学的な「自由意志の問題」、さらには「存在の耐えられない軽さ」というタイトルと結びついていることが、この作品が「名作」と言われるゆえんではないかと思います。


===ネタバレ注意!!物語の結末や核心に触れることが書かれています===


・恋愛と政治

まず、「恋愛」に関して言うと、この物語は男女の三角関係を描いたオーソドックスなストーリーと言えます。舞台はチェコスロバキアの首都、プラハ。優秀だがプレイボーイの脳外科医トマシュは、テレーザと結婚しても、芸術家のサビーナとの関係を切ることができません。これは、チェコ事件によってチェコスロバキアがソ連の支配下に置かれ、トマシュがサビーナを追ってスイスに亡命した後も変わらないのです。トマシュはスイスでもサビーナとの関係を続けるだけでなく、新しい女を町で引っかける毎日。テレーザはそんなトマシュに愛想を尽かし、プラハに帰ってきてしまいます。サビーナもアメリカに渡り、全てを失ったトマシュはテレーザを追ってプラハに帰ります。しかし、トマシュは命の危険を冒してまでプラハに帰ったにもかかわらず、相変わらずの浮気をする毎日。そこで、テレーザは一度だけ不倫をしてしまいます。しかし、良心の呵責に耐えられず、「プラハを去ろう」と言うテレーザ。そこから二人の農夫としての幸せな生活が始まるのです。こうしてトマシュに嫉妬をするテレーザの心情描写と、「自由」で「軽い」トマシュとの対比がストーリーの核の一つになっています。

しかし、この物語には「政治」というもう一つのストーリーの核があります。そこで描かれるのは、「プラハの春」「チェコ事件」をめぐる言論弾圧とそれに抵抗する人々の姿です。トマシュは、チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」以降、急速に認められつつあった言論の自由を背景に、共産党幹部を風刺した小説「オイディプス」を刊行します。ところが、その直後に、ソ連が「プラハの春」を阻止するためにチェコスロバキアの全土に制圧するチェコ事件が起きてしまうのです。写真家として活動をしていたテレーザは、ソ連軍とそれに抵抗する民衆の様子を次々に写真に収めていきます。その後、トマシュとテレーザは「オイディプス」の件もあって、スイスに亡命することになるわけですが、問題はトマシュの浮気が原因でテレーザがプラハに戻ってから。トマシュとテレーザはチェコスロバキアに入国するときにパスポートを取り上げられてしまいます。さらに、トマシュは「オイディプス」の撤回声明を拒絶したことで医師免許も取り上げられ、窓ふきの仕事をすることになります。ここでは、命の危険すら顧みず撤回声明を拒絶するトマシュの「軽さ」と「自由」へのこだわりが描かれていると言えるでしょう。

・自由

さて、こうした「恋愛」と「政治」という、ある意味ありふれたテーマの上に描かれるのが「自由」というテーマでしす。テレーザとトマシュがソ連軍占領下のプラハに戻るのも、医師の仕事を追われるのも、農夫としての人生を歩み出すのも、全てトマシュの「軽さ」が原因ですが、このことは物語の鍵となっているのです。

テレーザがトマシュの浮気に愛想を尽かしてプラハに戻るとき、以下のような手紙を残していきます。

トマシュ。私はあなたを助けなければいけないとは分かっているけれど、私にはそれができません。今の私はあなたの助けになるのではなく、あなたの重荷になっているもの。人生は私にとっては重いものだけど、あなたにとってあまりにも軽すぎる。私はこの軽さ―この自由に―耐えられない。私はそんなに強くないの。プラハでは、私はあなたの愛だけが必要だった。でも、スイスに来てから、私は全てのものをあなたに頼っている。もし、あなたが私を捨てるようなことがあったら、私はどうすれば良いの?私は弱い人間なの。だから、私は弱いものの国に帰ります。
Tomas, I know I'm supposed to help you. But I can't. Instead of being your support, I'm your weight. Life is very heavy to me and it is so light to you. I can't bear this lightness, this freedom. I'm not strong enough. In Prague, I only needed you for love. In Switzerland I was dependent on you for everything. What would happen if you abandoned me? I'm week. I'm going back to the country of the weak. Goodbye.
I'm sorry, but I've taken Karenin.

日本語では「重い女」なんて言う表現が日常的に使われますが、テレーザは要するに「重い女」なのです。それに対して、トマシュは「軽い男」。この軽さに「耐えられない」というのが、とりあえずの手紙の意味です。ただ、この手紙の中で、軽さ=自由という関係が示されていることは、物語全体を理解する上で非常に重要な意味を持っていると思います。トマシュは、政治についても、恋愛についても「軽さ」のために、パスポートを失い、医師免許を失い、農夫としての人生を歩むことになるわけですが、そこに全く悲壮感はない。それは最後に衝撃のハッピーエンドの結末となることからも分かるでしょう。要するに「軽さ」が「自由」として称えられている。そのことこそが、この物語の特徴と言えるかもしれません。

私たちには、ともすると人生を「重く真剣に考える」べきものであり、そのことでより良い人生が送れると考えている節はないでしょうか。実際には「重く真剣に考えた」ことがないという人も、そういう自分に引け目を感じていたり「重く真剣に考える」ことそのものは素晴らしいと思っているということは多いのではないかと思います。しかし、「本当にそうですか?」と問いかけるのが、この物語なのです。

ただ、単に、テレーザ=重い(社会に束縛されている)、トマシュ=軽い(自由)と考えるとしたら単純化のし過ぎであり、この物語を表面的にしか理解していないことになると思います。これについてはすぐ後で考えていくことにしましょう。

・自律的に変化する<私>

さて、この作品のタイトルに、「存在」という言葉が入っているのはどうしてなのでしょうか。「存在」というと、論理的に示されるような客観的、普遍的な存在というイメージを持つ人もいるかもしれません。しかし、この物語が言う「存在」はそういうものではなく、常に変化する<私>の存在と切り離せないものなのです。常に変化する<私>にとっての存在は、また常に変化するものでしかありません。これは「情報解釈は自律的に変化する主体によってなされる」という情報学の基本的な考え方とも一致します。

こうして常に変化する<私>という存在が、常に自らの選択を力強く肯定していくことは、決して簡単なことではありません。時には「耐えられない」と思うこともあります(詳しくは以前書いた記事を参照)。そういうとき、ソ連の支配下のチェコスロバキアに帰ったテレーザのように自分の外側に救済を求め、「ある価値観にしたがっていく」ことを選べば楽です。しかし、テレーザ自身も認めているように、それは「弱い人間」のやることなのです。

それに対し、トマシュは政治に関しても、恋愛に関しても、決して周囲の価値観に流されることはなく、自分の選択に責任を持っていた。一見して軽いように見えるトマシュですが、実はさまざまな葛藤があり、そうした中で彼なりの選択をしていたはずなのです。普通のラブストーリーなら、トマシュは「欲望に負ける弱い人間」ということかもしれませんが、この作品では全くそういう描かれ方がなされていないことも注目に値するでしょう。トマシュこそ本当の「強さ」を体現する人間なのです。

この立場から見ると、プラハに帰ることを決めてからのテレーザの行動は少し違った目で見ることができるかもしれません。それまで、トマシュの浮気を悲しむしかなかったテレーザは、「ソ連支配化のプラハに帰る」というとんでもない行動を取ることでトマシュに強い意思表示をします。また、トマシュがプラハに来てからも、テレーザはオイディプスの撤回声明を書かないというトマシュの選択を一人支持することを伝えます。そして、いつまで経っても止むことのないトマシュの浮気に対抗するために、自らも浮気をする。テレーザは「弱い人間」と言いつつ、実は「強さ」も持っているのです。そして、そのことは結果として、二人の農村での幸せな暮らしに結びついていきます。

このように考えると、「存在の耐えられない軽さ」の「軽さ」とは言い換えれば「常に変化する(<私>の存在という)現実」ということになるでしょう。こうして「常に変化する現実」は簡単には「耐えられない」。しかし、トマシュとテレーザは「強さ」によってそれを乗り越えていくのです。

この作品が素晴らしいのは、こういう本質的な問題を、「恋愛」「圧制下の政治的自由」という二つのテーマをコラージュのように組み合わせながら、美しく描き出しているということでしょう。長い映画ではありますが、こういう問題に少しでも興味を持っている人なら、少なくとも見て損をしたと思うことはないのではないと思います。

○追記

一応言っておかないといけないと思うのは、この映画の原作となった同題の小説には、冒頭部分に「ニーチェの永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた」という言葉が入っているということです。要するに、トマシュが表現しているのは「超人」であり、「自由」や「意志」に関してもこの立場から見るべきだというのが通常の理解でしょう。本文で書いたことも、基本的にはこうした理解に沿ったものです。この記事はあえてそれを、ちょっぴり情報学的な言葉で説明したものと言えます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

情報伝達と「心」―動物に心はあるのか?

チリの高速道路で轢かれた犬を、別の犬が路肩まで引きずっていくというYoutubeの映像が話題になっています。この映像に関して書かれたブログの中に、以下のようなものがありました。

助けに行ったって事は、事故にあって傷ついているとか
そこに居たら危険だって理解してるって事でしょ?
大変だ!助けなきゃ!って気持ちがあるんだね
レスキュー犬★/ミカンのohana

心というものは、人間だけしかないと考えられているが、仲間を助けるという行動は心などというよりも、本能なのかもしれない。
Instinct/shine

こういった日記に学問的にコメントをするのは、申し訳なくもあるのですが、これを読んで、ふと、「犬に心はあるのか」という問題について書こうと思ったのです。

いったい、犬に「心」はあるのでしょうか?結論から言えば、「とらえ方によって違う」ということになるのではないかと思います。これは当たり前のように思うかもしれませんが、情報学的には非常に重要なことです。

○心の定義の限界

現代の科学者は、「心」というものを科学的な研究対象とし、「心があるかないか」を客観的な基準によって決めようとしました。たとえば、「心があるのは人間だけだ」、「いや、霊長類にも心がある」といったようなものです。しかし、デイヴィッド・チャーマーズが「意識のハードプロブレム」という言葉で批判したように、こうした研究は決して実証的な研究にはなりえなかったのです。たとえば、「犬に心がある」という研究は、「犬を感情移入しているのに過ぎない」という理由で批判されていたわけですが、では人間に感情移入をしないで、「人間に心がある」ということを言えるのかというと、それも微妙なのです。

このことは「哲学的ゾンビ」という言葉によって端的に示されます。哲学的ゾンビとは、「他の人から見ると普通の人間と同じように振る舞うが、他の人と同じような経験を持たない。したがって心を持たない」という存在です。チャーマーズが主張したのは、実証的な研究から、人間は「哲学的ゾンビではない」という証明をすることができないということでした。つまり、犬も人間も哲学的ゾンビに過ぎないかもしれず、いわば、感情移入をすることによって初めて「心がある」と見なされているのに過ぎないのです。

○情報解釈と心

さて、情報解釈という点について、人間と動物は多くの共通点を持っています。人間も動物も、「生きる」ということによって、自律的に情報解釈をしているからです。このことを生物学的な表現で言えば、さまざまな情報は、「その情報を解釈することで、自分の生存にプラスになる」という「生きるための情報」だと言うことになるでしょう。この意味から言えば、情報とは全て「生物にとっての情報」「私にとっての情報」であるとまとめることができるのです。

ただ、この意味での情報は、「それぞれの個体に固有の情報」であって、人に伝えたり、書き留めたりすることのできない情報です。これに対し、人間のような生き物では、情報伝達を行います。情報伝達を行う人間の場合、「自分と同じように情報解釈する存在」を、他の存在と違う性質があるものと考え、コミュニケーションを行うことになるでしょう。ここで「自分と同じように情報解釈する」とは言い換えれば「心がある」ということにほかなりません。こうしてコミュニケーションを通して、「自分と同じようい情報解釈をする」という理解が生まれてくるとき、初めて「心」の存在が立ち現れてくるというのが、情報学の立場からの「心」の理解ということになるのではないかと思います。

○犬に心はあるのか?

こうした立場から、冒頭の映像の犬に心があると言えるのか考えてみたいと思います。一般的な理解にしたがえば、「shine」のブロガー氏が言っているように、「心というものは、人間だけしかないと考えられている」ということになるでしょう。生物学的に、本能と心は対立する概念ではないので、「本能」というのは言い過ぎですが、心を想定しなくても説明できる学習行動として犬の行動を説明することはできると思います。

ただ、仲間の犬を助けるという犬の行動が、「人間と何か共通するものがある」として犬に対する共感を持ちながら映像を見ることもできます。これには、「ミカン の ohana」のブロガー氏の「大変だ!助けなきゃ!って気持ちがあるんだね」というコメントが端的に表しているでしょう。このように犬を見るとき、その人は犬に心を見いだしているということになると思います。

要するに、冒頭で引用した二つのブログの記事はどちらも間違っているわけではないのです。

○「心とは何か」にまつわる問題

こうした「心があるかどうかはとらえ方次第」という見方に対しては、「それじゃ議論する意味がないじゃないか」という人がいるかもしれません。しかし、そうではないのです。

「心があるかどうかは科学的に決められる」という見方によれば、「脳死の人に心があるか?」という問題、「重度の痴呆の人に心があるか?」という問題も、「科学的」に決められることになるでしょう。「科学的な結論」では、基本的にその人の「能力」や「機能」に焦点が当てられます。たとえば、「他の人とコミュニケーションする能力がないのなら、心などあるとは言えない」というような「科学的な結論」が導かれるのです。こうした「科学的な結論」は、脳死の人はもちろん、植物状態の患者、痴呆の患者、精神障害者に対しても治療を停止して医療費を節約したり、彼らの身体を臓器移植等の「医療資源」として活用することを可能にしていくものです。

しかし、心というのがそもそもコミュニケーションや社会的な関係によって成り立つものだとしたら話が違います。たとえば、脳死の人は脳幹の機能はなくても、手を握ったら握り替えしてくるというような反応をすることができるわけですが、これをある種の「コミュニケーション」とするのなら、別の意味で「心」があることになるからです。このように理解するなら、かりに、脳死の人からの臓器移植を認めるとしても、「心のない物体(死体)」からの臓器移植ではなく、「生きている人に対する合法的な殺人」として理解されないといけないことになるでしょう。こうした見方は、森岡正博が『脳死の人』で指摘したように、脳死臓器移植に対するより手厚いサポートの必要性を訴えていくことや、場合によっては脳死臓器移植の廃止論に結びつきます。

こうした「心とは何か」という問題は、医療の場だけの問題ではありません。「外国人には心なんてない」という排外主義、「犯罪者には心はない」という犯罪厳罰化論はもちろん、生活保護や障害者福祉を巡る議論にも、「心」の問題が絡んでいるからです。

「心」の問題とは、「コミュニケーション可能性」の問題であり、「共感可能性」の問題にほかなりません。人は、自分が「コミュニケーションできる範囲」「共感できる範囲」を定め、その外側に対しては共感することを拒否するわけですが、その範囲こそ、私たちが「心がある」と考える対象の範囲だからです。時には暖かく、時には残酷な働きをする「心」の概念。「心」について良く知るとは、こうした社会の問題について知ることにほかならないのではないかと思います。

○関連記事

今から2年ほど前に、かなり近いテーマで書いた記事です。

人を殺してはいけないということについて/情報学ブログ

○参考記事

“ヒーロー犬”の行動に、襟を正す人々/ココログニュース ブログ発

| | コメント (0) | トラックバック (2)

秋葉原通り魔事件と負け組とニートと

今は新卒一括採用ゲームでの勝利が人材価値を保証しない。叩き上げで獲得した専門性が人材価値をもたらす時代だ。なのに教育界や親がいまだに『いい学校・いい会社・いい人生』である。教育界はこの「勘違い」で飯を食う利害当事者だし、親はかつての常識から抜けられない。

厳しい家庭で優等生として孤独に過ごした加藤容疑者は、進学上の「敗北」を過大に受けとって「挫折」した。成績よりも友達がいないことを心配しない大人たちのダメさに問題を感じる。ネットの影響だのPCゲームの影響だのという議論は笑止だ。

某全国紙に掲載されるはずだった秋葉原通り魔事件のコメント/MIYADAI.com Blog
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=65

自殺サイトに書き込みをする、「自殺志願者」の中で一定のカテゴリーを形成するようなグループとして、20代~30代くらいの男性で、自分の能力の低さを悩みの理由に挙げるいわゆる「負け組」の意識を持つ人がいます。こうした人に共通する特徴としては、

1. 高い学歴(たとえば大卒以上)がある
2. 自分の理想とする仕事(典型的には、責任のある正社員ホワイトカラー)へのこだわりがあり、その仕事に就けないことで、自分の存在が否定されたかのように思う。

というような傾向があるように思えます。

こうした人の多くは、自分には能力がない、だから生きる意味がないと考えてしまっており、本人が生きる意味と直結するほど重要なものとして考えている「能力」が、実は特定の価値観によるもの過ぎないというは忘れられてしまっているのです。つまり、本人が「自分の能力」の問題だと思っているのは、多くの場合、「自分の能力が、今、自分が前提にしている価値観と矛盾している」ということに過ぎないわけですが、そのことに気づかないために、「生きる意味がない」という結論に至ると言うことができるでしょう。

もちろん、この分析を自分の能力に関して悩んでいる全ての人に当てはめられるとは思いません。しかし、少なくとも「自分には能力がないから生きる意味がない」と考えている全ての人の問題は、こうした「能力と価値観の矛盾」だということは言えるのではないかと思います。

これは、いわゆる「NEET」の問題とも直結しています。NEETの問題は、当初、「本人のやる気の問題」と言われ、次第に、「雇用問題」と言われるようになったわけですが、「雇用問題」と言っても、単純に労働市場の需給バランスの問題ではないことは明らかでしょう。企業はホワイトカラーの正社員を必要としなくなっている一方、3Kと言われるような一部の職場は、不況と言われる現在でも、相変わらず人手不足という状況だからです。

NEETの背景には、「価値観のずれ」という問題があります。つまり、高校受験、大学受験を経て、就職する、そういう流れの中で「最低限、こういう仕事をしないといけない」という価値観が形作られます。こうした価値観の中には「責任のあるホワイトカラーの仕事がしたい」という価値観や、ステレオタイプ的な「やりがいのある仕事がしたい」という価値観があるでしょう。多くの努力と引き替えに得た「大卒」という学歴に対して、それを活かせないような仕事に就くことは彼らにとって自己否定とも言えることであり、その過程でこうした価値観が生まれてくるのは当然とも言えます。

ところが、実際に大学を卒業してみると、そうした価値観に合う仕事がないのです。「責任のあるホワイトカラーの仕事」にしても、学生がステレオタイプ的に考えるような「やりがいのある仕事」にしてもパイは限られています。それに対してあぶれた人は、「やりたい仕事に就くことができない」として、労働市場からドロップアウトしていくことになります。

端的に言えば、彼らは自分自身に「責任のあるホワイトカラーの仕事」あるいは「やりがいのある仕事」をするという非常に厳しい条件を課しているにもかかわらず、その価値観に見合うだけの卓越した能力がないということが問題なのです。これも、先ほどの自殺サイトの場合と同じく、「自分の能力と価値観の矛盾」の問題とまとめることができるでしょう。

////

さて、1年近く前の事件に対して何を今さらと思われるかもしれませんが、こうした話の流れで、去年6月の秋葉原通り魔事件について少々コメントしたいと思います。この事件に関して、加藤被告の進学上の挫折が本人の人格形成に大きな影響を与えたという議論がありますが、これはまさに「自分の能力と価値観の矛盾」の問題だと思うからです。

「負け組は生まれながらにして負け組」「私は要らない人」「他人に仕事と認められない底辺の労働」-。東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、殺人未遂の現行犯で逮捕された派遣社員、加藤智大容疑者(25)は犯行前、携帯電話の掲示板にこのような書き込みを続けていた。

【特報 追う】より高給、より望む職求め県外へ
http://sankei.jp.msn.com/region/tohoku/aomori/080612/aom0806120257000-n1.htm

「いい学校に入り、いい会社に入る」という価値観で育った加藤被告が、進学上の挫折を味わったときに、耐えられない矛盾を心に抱えることになったことは想像に難くないでしょう。その後、正社員を退職し、派遣社員として働いていた加藤被告が自分のことを「他人に仕事と認められない底辺の労働」と考えるに至った背景として、こうした「価値観」の問題があることは明らかだと思います。

この事件の原因としてしばしば派遣社員という雇用形態や、その待遇の低さなどが問題として取り上げられましたが、このように考えると「雇用形態」や「待遇」の問題はほとんど関係ないということが予想されるでしょう。たとえ正社員という雇用形態であったとしても、あるいは待遇が多少良かったとしても、加藤被告が自分の仕事を「他人に仕事と認められない仕事」と考えた可能性は高いし、逆に、派遣社員という雇用形態のままで、かつ待遇が悪かったとしても、こうした価値観の矛盾を抱えていなければ、殺人という結末に至ることはなかったと思われるからです。

むしろ、この事件に何か反省点を見い出すのであれば、それは、冒頭で宮台氏も指摘するような、教育を通して植え付けられる硬直化した「価値観」の問題ではないかと思います。

自分は、『いい学校・いい会社・いい人生』が勘違いとまで言うつもりはありません。『いい学校』が、ある意味における人生の可能性を広げるのは事実だし、そういう価値観も重要なものであることは間違いないでしょう。しかし、すでに実質的な「大学全入時代」が到来する中、「全入」する学生の全員に「責任のあるホワイトカラーの仕事」やステレオタイプ的な「やりがいのある仕事」という幻想を与え続ける余裕はないのです。いつまでも、そうした価値観にこだわっていれば、多くの若者が加藤被告と同じような心の闇を抱えながら生きていくことになるだけではないかと思います。

多くの場合、若者の価値観は柔軟です。大人が提供する価値観がどんなに硬直的なものであっても、ほとんどの若者は、それぞれの状況に適応し、友人同士のコミュニケーションの中で自分の居場所を見つけていくことでしょう。しかし、全ての人がそういう能力を身につけているわけではありません。大人が提供する価値観を素直に受け止めてしまうような、加藤被告のような若者にとって、現代社会はどこにも居場所のないものになっているのです。

彼らにとって必要なのは、そうした価値観を「一つの見方」として相対化できるような柔軟な発想の仕方にほかなりません。最初に自殺サイトの例で見たように、自分の価値観を価値観であると相対化できない人は、その価値観から自分の生きる意味そのものを評価し、最終的には「生きる意味はない」という結論にまで至ることになります。しかし、そうした見方が「一つの見方」に過ぎないということに気づけば、そうした考えから抜け出すことができるのです。

これは加藤被告一人の問題ではありません。「負け組」という言葉に象徴される価値観の矛盾は、自殺やNEETの問題と深く関わっているだけでなく、統計には表れないような形で、多くの人々が心の重荷に感じていることだと思われるからです。こうした価値観の矛盾に適切に対処できるような「複眼的な思考法」を、教育、特に、高校や大学の情報教育を通して、制度的に教えていくことが、ますます必要になっているのではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

内藤里奈さんと情報学とペルソナ

先日、秋葉原で「恋のから騒ぎ」の内藤里奈さんを見かけたことを日記に書いたのですが(リンク)、昨日の放送で、ご本人が以下のような趣旨のことを言っていたようです。

「あだ名がないから、街で気づかれても「ほら!あの性格の悪い子だよ!!」とか「恋からの生意気な女だよ!」とか言われる。しかも気づいてくれるのにオンエアのイメージからか、みんな怖がって話しかけてこない。怖がるもなにも全然怖くないのに痛すぎる偏見を持たれて交友関係に支障をきたしている。」 http://www.ntv.co.jp/koikara/new/20090131/index.html

自分はそれを読んで大爆笑。だって秋葉原で見かけた時も、名前を覚えておらず「あぁ、あの性格の悪い子ね」としか思わなかったのですから。あまりにも当たりすぎています。先日、自分が書いた日記には当たり前のように名前が載っていますが、それは家に帰ってきて「恋から」のWebページにアクセスして調べた結果でした。見かけた時点では、全然名前を思い出せなかったのです。

でも、まぁ、テレビで語られる「性格」なんて、あくまでテレビの中だけのもの。たしかに、自分も見かけたときに「あの性格の悪い子ね」と思ったのは事実ですが、実際に話したときに、性格が悪いかどうかは別問題だということくらい分かっているつもりです。自分で「性格の悪いキャラ」を自覚して、それを売り込むようであれば、将来にも期待が持てるのではないでしょうか。

さてさて、上ではごく普通に「性格の悪いキャラ」と書きましたが、こういう意味での「キャラクター」のことを、一般に「ペルソナ(Persona)」とか「人格(Personality)」と言います。「ペルソナ」は、古典劇で用いられた「お面」「仮面」を意味する言葉です。要するに、私たちはそれぞれ社会という舞台で、「役」を演じている。そういうことができるのです。

さらに言うと、「ペルソナ」の性質として、さらに以下のようなものを挙げることができるでしょう。

1. 一人の人は複数のコミュニケーションの「場」に参加し、それに対応する複数の「ペルソナ」を持っているということ。たとえば、私たちは、家族に接するときと、友人に接するとき、仕事の同僚と接するとき、また仕事上の顧客(教師なら生徒)と接する時で、「別の自分」を演じわけています。このとき、私たちはそれぞれのコミュニケーションの「場」に応じた「ペルソナ」を持っているということになります。(これはいわゆる「多重人格」(解離性同一性障害)と別の話です。念のため)

2. 「ペルソナ」は、過去と未来のコミュニケーションの積み重ねによって決まるものだということ。過去のコミュニケーションによる知識や経験と、未来のコミュニケーションに対する予期、この両方によって、どういう「ペルソナ」を演じるかが決まるのです。

3. 私たちは、自分の「ペルソナ」を意識して作り上げているわけではなく、あるコミュニケーションに参加することで無意識に、自分「ペルソナ」を作り上げているということ。営業マンは、先輩について顧客に接するうちに、営業マンとしての「ペルソナ」を身につけ、教師は講義を繰り返すうちに教師としての「ペルソナ」を身につけます。また、テレビ番組に出演するエンターテイナーは、テレビへの出演を繰り返すうちに、いつの間にか視聴率が取れるような「ペルソナ」を演じられるようになります。

要するに、内藤里奈さんが「性格の悪い女」と思われたところで、それはあくまで、「視聴率」を媒介にし、「テレビ番組」というコミュニケーションの中で作られた「ペルソナ」であって、それ以上でもそれ以下でもないのです。自分だって、彼女のことを「性格の悪い女」と思いながら、おもしろがって番組を見ているわけですから、その意味では立派に仕事をこなしていると言えるでしょう。まぁ、わざわざそんなことを言われなくても、ご本人が一番分かってらっしゃるのではないかと思いますが…。

ちなみに、なんで「内藤里奈」さんにこだわって記事を書くかって?こういう内容なら、わざわざ個人名をタイトルにしないで、「情報学とペルソナ」で十分じゃないかという疑問が聞こえてきそうです。

実は、前に書いた記事が「内藤里奈」の検索でかなり上位に入っており、そちらからのアクセスが伸びていたのです。こういうときは、似たような記事をタイトルにして記事を書いた方が、ブログ全体のアクセス増加につながるので、無理矢理この記事をひねり出したところです。今さらですが、「ペルソナ」で記事を書こうとは、ついさっきまで思っていませんでした。要するに、ブロガーである私自身、「アクセス数」を主要な関心とする「インターネット・コミュニケーション」の参加者だということ。この記事のタイトルがそれ自体、違う意味で記事の内容を反映しているのです。

まぁ、正直に言うと、このオチを付けるために、このタイトルにしたというのもあるんですが…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

失業は個人の問題か、政策の問題か?

最近、派遣労働者の解雇などが問題になるにつけ、インターネット上のコミュニティ(2ちゃんねるやブログなど)では、「派遣という働き方を選んだ個人の責任」という見方が散見されるようになりました。

しかし、本当でしょうか。個人の思惑にかかわらず、企業は正社員の枠を減らし、派遣社員を増やす一方、政府はそれに対して何らセーフティーネットの拡充を行ってきませんでした。つまり、派遣労働者の解雇という問題は、起こるべくして起こった問題であり、単純に「個人の責任」として片付けられるものでもないのです。これは、マクロ経済や政策について議論する視点を持っている人なら誰もが同意するところでしょう。

しかし、一方で、派遣社員になった個人の立場からすれば、失業は回避することができた問題かもしれません。目先の働きやすさや待遇を犠牲にして正社員を目指すことで、失業を免れることができた可能性も十分あるでしょう。そしてその意味で「派遣という働き方を選んだ個人の責任」という見方も必ずしも間違っているとは言えません。

このパラドックスは、このブログで繰り返し行ってきた主張によって解決されるものです。一つ前の記事でも、その前の記事でも取り上げたように、「一人の人間の生き方の問題と社会の制度の問題は別」。したがって、一人の人間の生き方の問題として言えば「派遣という働き方を選んだ自分の責任」であっても、社会制度の問題としては「政策の不備がもたらした問題」ということができます。これらは矛盾することではなく、完全に両立することです。したがって、派遣労働者は、「自分の問題としては、過去の自分の行いを反省し、次の就職先を探す」一方で「政府に対しては政策的な責任を求めていく」という行動を、自信を持って行っていくことができるのです。

こうした「一人の人間の生き方の問題と社会の制度の問題」の区別は、本来、至るところで問題になっており、それにもかかわらず、そのことが区別されないために、議論が混乱しているという状況が多く見られます。「失業は個人の問題か、政策の問題か」という、本来であればあまり意味のない問いが繰り返されるのも、こうした問題に無頓着な人が多いからだということができるでしょう。

ちなみに、派遣切りの問題そのものについては、姉妹ブログの「派遣切りで派遣先企業を叩く、マスコミのレベルの低さ」で説明しました。この記事は、派遣切りの問題全体からすると、若干細かい問題に絞って議論したものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「障害は個性」という見方と障害者排斥

1. 障害者排斥論の背景

昨日、電車に乗っていたら意味不明のことを大声で叫んでいる人がいました。それを見て自分は「自分の子どもがこうなったらどうしよう」「自分の愛する人がこうなったらどうしよう」、さらには「自分がこうなったらどうしよう」と思い、ものすごく悲しい気分になりました。障害というのは誰もがなる可能性があるものです。自分もなる可能性があるし、自分の親族もなる可能性があります。最近の障害者を排斥するような風潮を見るにつけ、こういう視点を持つことの大切さを感じるものです。

さて、このことを通してふと思ったのが、障害者運動等を通して、ある時期から強調されるようになった「障害も個性」という見方です。歴史的に言うと、この考え方は1957年に発足した脳性マヒの障害者の団体「青い芝の会」の主張として知られており、それ以降、我が国で学問的に障害者の問題、自己決定権の問題を扱うときには外すことのできない論点となりました。ただ、こうした考え方が一般に流布したのは、1999年に先天性四肢切断の男性、乙武洋匡氏が「五体不満足」を公開した時代まで待たなければいけないかもしれません。ベストセラーとなった「五体不満足」を通して、多くの人が障害者を受動的でかわいそうな存在とする認識が誤りだったと考え、障害者の主体的な生き方に目を向けるようになったからです。

しかし、こうした障害者に対する見方の変化は必ずしも障害者にとって嬉しいものではありませんでした。某週刊誌が、ベストセラー作家となった乙武洋匡氏の経済的に豊かな暮らしを取り上げた批判的な記事を掲載するなど、「障害者排斥」とも言える見方も、同時に一般的になっていったからです。インターネットコミュニティの出現は、このことをさらに加速させていきました。極端な方向に傾きがちと言われる匿名掲示板の2ちゃんねるだけではなく、より一般的な層が参加していると思われるSNSのmixiでも、障害者に対して排斥的な記事が多く見られるようになったのです。

この背景に、障害者を「かわいそうなもの」「自分より下のもの」として見る見方があるということは、「青い芝の会」をめぐる議論の歴史から容易に想像できます。すなわち、障害者を「かわいそうなもの」「自分より下のもの」として見る見方は、良くも悪くも障害者福祉の感覚的な基盤として、あるいは障害者排斥への防波堤として機能していたのです。そうした見方が失われたところに、障害者福祉への無理解、障害者排斥への傾倒が起きるのは必然的だったと言えるでしょう。

こうした見方を、理論面から批判するのはたやすいことです。障害者の権利は「かわいそうなもの」「自分より下のもの」という感情によってではなく、「主体的な権利」として認めなければいけない。こういう主張も分からないことはありません。「かわいそうなもの」「自分より下のもの」という感情によってしか障害者をいたわれない人々の偏狭な考え方、権利意識の低さを批判する見方にも一定の正当性があると言えるでしょう。

しかし、単純にそのように主張する人はあまりにも現実を見ていないのではないでしょうか。現実に「障害は個性」と言うことが、障害者の政治的立場を危うくするのであれば、公の場でそのような発言をすることの意味そのものを問い直さなければいけない。さらに言えば、そのような発言を支えている理論そのものを問い直さなければいけないと思うからです。

この議論は、「青い芝の会」の主張に対し、障害者や支援者の立場から反発があったことにさかのぼります。「障害者の自立」を叫ぶ「青い芝の会」の主張が、結果として障害者へのケアの切り下げにつながるということは、当時から言われていたことだからです。実際、「青い芝の会」の主張は、部分的に受け入れれば、結果として福祉予算の切り下げにつながる面もあり、そうした意味で、「利用」されてきた面も少なからずあるのです。今日、「障害は個性」という見方が普及するとともに、障害者のケアの切り下げ論や、それにともなう悪平等論が台頭してきたのは、こうした古くからの危惧が現実になったに過ぎないということもできるでしょう。

2. 「機会平等」の政治性

「機会平等」という考え方があります。人間には能力がある人とない人がいて、それらの人が異なる「結果」になっても仕方ないが、均等に「機会」があたえられるのなら平等だと言えるという考え方です。これに対し全ての人が同じ「結果」を得なければいけないというのが「結果平等」です。ただ、「機会」の平等と「結果」の平等は程度問題だということを忘れてはいけません。

たとえば、次のような因果関係を考えたとします。

Equality_of_opportunity

このとき、「生育環境は人によって違うけれども、教育機会は能力よってのみ決まらなければいけない」とするのなら、ある種の「能力」(図の赤字)に注目した「機会平等」です。ここで「生育環境」是正されるべきものとしてみなされているのです。これが、一般的な意味での「教育の機会平等」でしょう。一方、収入は「教育機会(学歴)」と「職種」と「能力」の違い(図の青字)によってのみ決まらないといけないが、それ以外の要因によって決まってはいけないと考えるのが、一般的に理解されている「経済的な機会平等」です。しかし、理論上は「出生状況が違っても、生育環境は平等でなければいけないという「機会平等」もありえます(生まれてすぐ親から引き離して育てるというユートピア的平等社会)。また、教育にかかわらず収入は平等でなければいけないという議論もあります(学歴差別是正の議論)。これらのうち、理論的にはどれが正しいというわけではありません。現代社会では無数の「機会平等」の一つが訴えられているだけなのです。

これは障害に関しても同じです。特定の障害を「是正するべき機会の不平等」と考えるのであれば、福祉など特別な措置を通して是正していくべきということになります。一方、「障害は個性」であり、是正するべき不平等ではないとするのなら、現在の制度は「障害者を優遇し過ぎる」「逆差別だ」ということになるのです。

重要なのはこれらの線引きが、普遍的に決まるのではなく、政治的に決まるものに過ぎないということでしょう。「障害者の権利」は、障害者が普遍的に持っていたものではなく、歴史の中で勝ち取られてきたものです。もちろん、「全ての人が平等に生存権を持つ」という理念そのものは、現代社会(少なくとも日本の社会)において、広く認められたものであり、それを疑う人はあまりいないでしょう。しかし、その線引きはあくまで恣意的なものであり、それは政治、さらに言えば世論によって決まっていくものなのです。そうであれば、世間の反発を促すような形で、「障害は個性」と訴えていくことが本当に正しいのか疑問でしょう。匿名掲示板である2ちゃんねるだけではなく、本名を公開して発言しているSNSのmixiでも障害者排斥の風潮が見られるということを、障害者運動の関係者は重く受け止めなければいけないのではないかと思います。

3. 生き方の問題と制度の問題

では、障害者は、「障害は個性」という主張を慎み、かわいそうな存在として卑下されながら生きていかなければいけないのでしょうか。自分はそうは思いません。なぜなら、「一人の人間の生き方の問題と社会の制度の問題は別」であり、「個性」という言葉の意味も、それによって変わってくるからです。

社会の制度の問題として言えば、「障害は個性ではなく、是正されるべき機会の不平等だ」ということになるし、障害者はそう主張するべきでしょう。そこでは「かわいそう」という見方を甘んじて受けなければいけない場合もあるかもしれません。しかし、一人の人間の生き方の問題として言えば、自分が生きている世界は、かけがえのないたった一つの世界であり、「誰と比べて良い・悪い」というようなものではありません。また、健常者が一人の障害者に接するときも、そうした相手の立場を尊重しながら接するということも重要です。それをあえて「個性」というのであれば、「個性」ということもできるでしょう。これは一見して矛盾するように思うかもしれませんが、そうではないのです。それは一般に、「一人の人間の生き方の問題」と「社会の制度の問題」は別のものであり、どちらの視点を取るかによって、ものごとは全く違った形で見えてくるものだからです。

今日の障害者排斥の背景には、障害者や障害者論を語る人々が、こうした障害をめぐる2つの視点の区別―情報学的に言えば社会システムと心的システムの区別―に無自覚だったということがあるのではないでしょうか。たとえば、「障害者である自分は、自分のかけがえのない世界を生きているし、自分は自分のことを『かわいそう』だと思っていない。でも、その背景には、社会の暖かい眼差しがあるということを忘れてはいない」。こういう言説が一般的になれば、社会の障害者に対する見方も現在と違うものになったはずです。ところが、障害者はしばしば自分自身を「かわいそうな存在」なのか「自立的な存在なのか」という2者択一で理解しようとしてしまいます。こうなると、「かわいそうな存在として卑下して生きる」か、「自立的な存在として周りを突っぱねて生きる」かという結果になるのです。そして、後者の側面のみが強調されることで、社会的に「障害者排斥」という結果を導いてきたと言えるでしょう。

これは、理論的には「青い芝の会」以来続いてきた伝統的な問題です。しかし、「障害は個性」という見方がマスコミの報道やインターネットコミュニティの出現に伴って一般的になり、現実に「障害者排斥」の流れにつながってきたという意味で、今日的な問題と言うことができるでしょう。こうした中、障害者運動が「情報学的な」変革を迫られていることは、「情報の時代」としての現代の特質を端的に表していると言えるかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«マスコミュニケーションと恋愛