「胡蝶の夢」とシステム論

「胡蝶の夢」という話を知っているでしょうか。

昔、荘周という者がいた。荘周は、胡蝶になって自在に飛び回る夢を見て、その間は、自分が荘周であることも忘れていた。しかし、荘周が夢から覚めると、やはり荘周のままだった。荘周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘周になったのかは分からない。でも、荘周と胡蝶には必ず区別があるはずである。これは物化(万物の変化)というものである。(荘子「斉物論第二」より拙訳)

今回はこの話をもとに、「システム」とは何かということを考えていきたいと思います。

1. 夢と現実の間

私たちは夢と現実を区別します。通常、夢の方が現実で現実の方が夢だとは考えません。なぜでしょうか。それは、「現実によって夢は説明できるが、夢によって現実は説明できない」ということによると思われます。

たとえば私たちは現実の世界で夢を見ているとき、現実の世界の他の人によって「君は寝ていたね」と言われることがあります。しかし、夢から醒めている間、夢の世界の人から「君は寝ていたね」と言われることはありません。このために、私たちは夢と現実を逆に考えることはないということになります。もし、何度寝ても、前に見た夢の続きが見られて、さらに起きている間も夢の世界が問題なく進行しているとしたら、現実世界とは別に夢の世界があると考えても不思議ではないでしょう。しかし、実際には、こういうことがないため、「荘周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘周になったのかは分からない」と考える人があまりいないのです。

2. 夢から醒めた夢

ただ、こうした現実―夢の関係は相対的なものであり、「夢の夢」というようなものを考えると、少し違ったことが分かります。自分が子どものころ、怖い夢を見ながら「これは夢だ。夢だから起きればいい」と思って起きるのだけれど、起きたつもりが結局、同じ夢が続いているということが何度もあったのです。ひどいときには、これが何重にも繰り返されたことがありました。一言で言えば、「夢から醒めた夢」を見ていたわけです。また、夢の中で「このままではおもらしをする。起きよう」と思い、起きてトイレに行くもののどうやっても出ない。あるいは、出したつもりなのに、全然尿意がなくならない。そこで、「あぁ、まだ夢の中なんだな」と気づくという夢を見たこともありました(名誉のために言っておくと、自分は子どものころ、ほとんどおねしょをしたことがなかったようです)。

さて、こうして現実だと思っていたものが、実は「夢から醒めた夢」に過ぎないということがありえるということは、今見ている現実が実は、「夢から醒めた夢」に過ぎないという可能性を<否定できない>ということを意味しています。今、あなたが読んでいるこの文章が、実は夢の世界の文章ではないということを、どうやって証明することができるでしょうか。今見ている世界が実は全て夢であって、突然、夢から醒めて何事もなかったかのように「本当の」現実が続いていく、その可能性を私たちは否定することができないのです。

3. 観察する世界と観察される世界

ただ、このように言うと、ある批判を受けるかもしれません。「私たちが生きている世界では、今いる世界しか見ることができない。それにもかかわらず、その「外側の世界」について議論することができるだろうか」という批判です。

こうした批判をする人は、「観察する世界」と「観察される世界」を混同しているのではないかと思います。私たちは、今見ている現実の世界の中で、「現実の世界」と「夢の世界」の関係を理解しています。ただし、このとき、二つの世界を理解する基準となっている「現実世界」と、理解される側の「現実世界」は同じとは限りません。前者は「観察するものとしての世界」、後者は「観察されたものとしての世界」なのです。ここでは、ある世界が世界そのものを観察する「自己観察」という現象が起きていることが分かります。

すでに、私たちが夢を夢と認識することには、「現実によって夢は説明できるが、夢によって現実は説明できない」という理解が前提になっていることを述べました。このとき、私たちは、「現実の世界」と「夢の世界」の両方を対象として観察していることが分かります。私たちは「現実の世界」から、「現実の世界」を自己観察し、それと同時に「夢の世界」を観察することもできます。ここで、観察された「現実の世界」の側から観察された「夢の世界」を説明できるということが認識されるとき、はじめて「現実―夢」の関係を認識することができるのです。

こうして、現実世界の中で、「現実―夢」の関係を理解することができれば、その一般化として「本当の現実―今見ている現実」という区別が「あるかもしれない」という可能性を理解することもできます。たしかに、私たちは、今いる現実世界の外側に出て、そこから現実世界を眺めることはできません。しかし、現実世界の内部で、現実世界を自己観察するとき、現実世界の外側の問題についても議論することはできるのです。

4. 一貫性としての世界

それでは、「今見ている現実が、本当に現実なのかどうか」はどのように判断できるのでしょうか。結論から言うと、そんな判断はできません。私たちが見ている現実世界は、その現実世界の外側に根拠を持っているものではなく、「あるひとまとまりの一貫性」としか言いようがないものなのです。

今見ている現実は、本当は「夢から醒めた夢」かもしれない。これは論理的に否定することができない命題です。しかし、そうであるにもかかわらず、私たちの世界は「あるひとまとまりの一貫性」を持っています。その一貫性をもとに、自らの世界そのものを自己観察することすらできるのです。「夢の世界」が「あるひとまとまりの一貫性」を持っているのと同じように、「現実世界」も「あるひとまとまりの一貫性」を持っている。このように考えることによって始めて、外部の基準によらないでも「現実世界」が成り立っていることを示せることになります。

こうした理解に基づけば、今私たちが見ている現実の世界が、実は「夢から醒めた夢」であるかもしれないという疑いは、むしろ積極的に受け入れるべきものだということになるでしょう。たしかに、私たちが見ている現実の世界が、実は「夢から醒めた夢」であるかもしれない、つまり、私たちが生きている世界は、外部の何かによって根拠づけられるものではないかもしれない。しかし、それでも私たちの見ている世界は、「あるひとまとまりの一貫性」という意味で成り立っている世界なのです。

5. 再び「胡蝶の夢」

ここで再び、荘子の「胡蝶の夢」に戻ってみることにしましょう。荘子の「荘周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘周になったのかは分からない。でも、荘周と胡蝶には必ず区別があるはずである」というテキストにおいて、「荘周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘周になったのかは分からない」というのは、一見して分かりづらい要素を持っています。なぜなら、私たちは日常的には、夢と現実を区別しているからです。しかし、ここまでの議論で述べてきたように、夢と現実の区別は所詮、相対的なものに過ぎず、これが現実でこれが夢というようなことを、何の前提もなしに示すことはできないのです。おそらく、荘子が「荘周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘周になったのかは分からない」という言葉で言いたかったのは、こういうことではないかと思います。

そうだとすると、「荘周と胡蝶には必ず区別があるはずである」というのは、「あるひとまとまりの一貫性」として成り立っている世界の間の区別を意味していると言うことができるでしょう。

これを元にして考えると、荘子の最後の言葉、「これは物化(万物の変化)というものである」という部分も、「あるひとまとまりの一貫性」の生成消滅、あるいは一貫性のあり方そのものが、「常に変化する」という意味で理解できます。ある人にとっての「世界」は、その人の生死によって生成消滅するのはもちろん、その人がさまざまな考えに触れたり経験をしたりすることによって、新たに生まれたり消えたりするものです。「胡蝶としての世界」「荘周としての世界」いずれも、こうした万物の変化の中で生み出されたものに過ぎません。しかし、「~に過ぎない」のではなく、「まさにそこにある」ことに注目するべきだ。それが、「胡蝶の夢」の譬えが意味していることなのです。

ちなみに、システム論との関係については続編で書くことにします。

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「風の谷のナウシカ」について補足

これは補足記事です。メイン記事はこちら

 

ちょっと前に「風の谷のナウシカ」のラストについての記事(link)を書きました。そこで、ナウシカを理解する上での基本的なこと(一神教vs.多神教の問題、ニヒリズムの問題)について一通り書いたつもりでいたのですが、その後、この記事に対するいろいろな場所での反応を見ていると、一つ言い忘れたことがあることに気づきました。それは、ナウシカが「系統としての(つまり、先祖から子孫に至る)生命としてのあり方」に注目しているということです。これについて説明しないと、ナウシカのラストの問題(ナウシカvs.墓所の主の対立)についても良く分からないのではないかと思ったので、簡単に補足します。

ちなみに、この記事に「ネタバレ」の要素はそれほど多くないと思いますが、前に自分が書いた記事を前提にしないと、そもそも意味が分からないと思いますので、原作前の記事→この記事という順番で読んでいただけると幸いです。

○ 生命の縦糸と横糸

ナウシカでは、系統としての生命(先祖から子孫へという生命の流れ)が問題にされています。これは、一神教vs.多神教の問題やニヒリズムの問題ほど、セリフにはっきりと現れていませんが、ストーリー全体にわたって「部族」「氏族」といったキーワードが現れ、「子孫を残す」ことの大切さが扱われていることに見て取れるでしょう。そこでは血縁を持つ人々がその子孫を残そうとする「生命」のあり方が注目されていることが分かります。

一方、これとは別に、ナウシカにおいては多くの生命が複雑に絡み合った生態系が問題にされています。腐海の複雑な生態系が「腐海の謎」とされ、ストーリーとともに解明されるようになっていること、腐海のムシたちがテレパシーを介して集合的な意識を持っているとされていることはその一例でしょう。系統としての生命と、生態系としての生命、これは縦糸と横糸のように、ナウシカの世界の「生命」を織りなしているのです。

さて、ナウシカはラストシーンで「人間の卵」を殺して墓所の主を破壊するわけです。「人間の卵」も「ナウシカの時代の人々」も「生命」という意味で同じであるにもかかわらず、どうして人間の卵を殺したのでしょうか。その理由の一つとして、「人類の卵」が、ナウシカの時代の「生命」―つまり、先祖から子孫へという系統としての生命、多くの生物が作る生態系―と別のものとして描かれているということを無視することができないと思います。ナウシカは自分たちの生命が、自分たちと別の流れを汲む生命の手段となることを拒否したわけです。いや、むしろ「生命」というのが、系統と生態系という縦糸と横糸の関係によって初めて成り立つものだとしたら、人間の卵のようなものは生命ではないとまで言えるでしょう。

○ 生命の境界線

こういうナウシカの発想と反対なのが、「人間(生物学的種としてのヒト)」というものを科学的に規定して、その「人間」を残していこうという発想です。以前に「人を殺してはいけないということについて」という記事でも書いたのですが、「人を殺してはいけない」の境界線として科学的に定められる「人間」が採用されるようになったのは、科学が発達して科学的な「人間」の概念が確立してからのことです。現代の私たちは、国際安全保障の枠組みの中で「人権」という概念を使うのが当たり前になっていますが、これも実は、科学的な「人間」の境界線が引かれなければありえないことだったのです。

ナウシカは、こうして「科学的に定められる人間を尊重する」というような立場ではなく、まさに自分たちが投げ込まれている生命の流れを重視する立場を取ったと考えることができます。墓所の主のように、「人間の卵もナウシカも同じように人間じゃないか。より未来まで残る人間の卵の方が大切じゃないか」という主張は、明らかに「科学的に定められる人間」を尊重する立場に基づくものであり、ナウシカの生命観と明確に異なるものだということが言えるでしょう。

◎「墓派」の立場(余談)

余談ですが、こうやって区分すると、自分は立場上、墓所の主の発想も完全には否定できなくなります。自分は、科学や人権概念に基づく人間の尊重は普遍的な概念ではないが、いやないからこそ、こういった考え方を大切に守っていかないといけないと思うからです。

もちろん、「人間の卵」が、人間として尊重される対象かどうかははなはだ疑問ですが、それはあくまで架空の話の中のことなので、どう考えるかは読者の自由でしょう。「人間の卵のような憎しみを持たない人間」「そういった生命が尊重される」ことを、科学や人権と言った現代社会の「秩序」のメタファーと考え、ナウシカをそうした秩序に対する「破壊」のメタファーだと考えるとしたら、その流れで墓所の主を擁護する見方もできるのです。

要するに、現代社会の「墓所の主」は、さまざまな問題の元凶であると同時に、科学や人権と言った素晴らしい秩序の源泉でもあります。作者の意図通り、墓所の主の悪い面に注目すればナウシカの行動に賛成できるでしょうが、作者の意図と反対に墓所の主の良い面に注目すれば、ナウシカの行動に賛成できなくなるのは当然なのです。これは前の記事にも書いたように、ストーリーにどのようなメタファーを読み込むかという問題にほかなりません。「自分には作者の意図通りのメタファーを読み込めない」という人が、ナウシカを好意的に理解できないのは仕方ないでしょう。

ただ、墓所の主はメタファーの一つに過ぎません。墓所の主を好意的に解釈するとなると、「生命」や「ニヒリズム」といった問題の解釈がかなり難しくなるでしょう。ナウシカに批判的な人は、そういったことについては無視するのだと思いますが、それはせっかくの作品を台無しにする残念な読み方であるような気がします。

○ 生命論的ニヒリズム

本題に話を戻します。

前の記事では、ナウシカがニヒリズム的な立場、つまり「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられる」という立場を取っているということについて触れました。これは、ナウシカのストーリーのさまざまなところで出てくるキーワード「虚無」にも現れているし、ラストの墓所の主とナウシカの会話の中にはっきり現れているものです。

ただ、ナウシカのニヒリズムは、通常の意味でのニヒリズムとかなり違います。それは、ナウシカのニヒリズムは、単に「一人の人間の生き方」にとどまらず、生命としてのあり方と関係しているからです。

墓所の主「人類はわたしなしには亡びる お前達はその朝をこえることはできない」
ナウシカ「それは この星が決めること」

ここで、「この星が決めること」というのを、ナウシカのストーリー全体の中で理解すれば、それは地質的な意味での地球という星を指すのではなく、ナウシカが生きている生態系、そして祖先から子孫へという生命の流れ(系統)を指しているのは間違いないでしょう。ナウシカは墓所の主=神という価値基準によって自分たちの生命が評価されることを拒否するわけですが、そこで価値基準としての役割を引き受けるのは、通常のニヒリズムのようにナウシカ個人ではなく、生態系と系統という縦糸と横糸の織りなす「生命」にほかならならないのです。そしてその意味で、ナウシカの問題意識は、すでに通常の(個人のみを対象にした)ニヒリズムではなくなってしまっているということができるでしょう。こうしたナウシカのニヒリズムを、「生命論的ニヒリズム」とでも言うことができるのではないかと思います。

ナウシカのラストの選択も、こういう「生命」=生態系と系統という縦糸と横糸の織りなす「生命」と、それを支配しコントロールしようとする存在の対立として理解しないといけません。前の記事では、ニヒリズムとの関連について触れたのですが、こういう重要なポイントについて全く触れなかったので、補足としてこの記事を書かせてもらったものです。

本題に関して言いたいことはここまでですが、本題ではないことについてちょっとだけ補足します。

◎環境問題とナウシカ(余談)

この記事の目的である「ラストのナウシカの行動を理解する」ことからは離れますが、ここまでの話は環境問題とナウシカの関係とも関係しているので、これについて少し触れたいと思います。

良く指摘されるように、ナウシカの最初の方(映画化された部分)では、「環境との共生」といったありがちなテーマが扱われているのに対し、ラストの部分では、テーマが「いわゆる環境問題」ではなくなってしまっています。これは、ナウシカが書かれたのは、公害や森林破壊などの問題が起きる中での切羽詰まった「環境運動」(環境を守らないといけないよね)から、その矛盾を指摘する意味で、「環境問題で言う環境って結局人間に取っての環境じゃないの?」という「環境思想」が出てきた時代だということと関係しているでしょう。オームも腐海も全部人工物というのは、こういう時代の流れの中で出てきたものではないかと思います。

そういうこともあり、ラストの部分では、直接的には「いわゆる環境問題」が射程に入っていないというのが、普通の解釈でしょう。しかし、ナウシカの主張を環境問題に当てはめるとどうなるのでしょうか?自分は、以下のように考えることができるのではないかと思います。

「『生きる』ことは、科学技術や『神』のようなものの手段ではなく、それ自体、世界に意味や価値を与えるものである。ここで、『生きる』ことは個人としての生の問題だけではなく、先祖から子孫に伝わる生命の流れや生態系を含めた『生きる』ことを含む。こうした広い意味での『生きる』ことに注目すれば、環境問題も自然に解決するのではないか」

これは、環境倫理を、人間vs.環境という形で理解するのではなく、現行世代vs.未来世代という倫理(世代間倫理)として理解しようとする潮流とも近いのですが、「生命」という観点から考えるという点で、こうした議論よりさらに先に行くものではないかと思います。

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メディアリテラシーと情報学

自分は良く、「マスコミの言っていることが正しいとは限らない」という趣旨のことを書くので、「メディアリテラシー」を訴える人と混同されます。しかし、自分が主張していることと「メディアリテラシー」はかなり根本的なところで違っています。

「メディアリテラシー」の大切さを主張する人は、通常、確固たる「真実」が存在すると考えています。マスコミが「真実」を報道しないので、さまざまな情報を仕入れることで「真実」にたどり着くようにがんばりましょうというのが、「メディアリテラシー」の考え方です。自分は、別にこういった意味での「メディアリテラシー」の大切さを否定しているわけではありません。これはこれで非常に大切なことだと思います。

ただ、自分の場合、こういうことを言うために、わざわざブログに記事を書いているのではありません。自分がブログに記事を書くのは、もう少し大きなことを言いたいからです。それは「真実」とか「誤り」というのが、それ自体、人によって違っていたり、時代や立場によって違うかもしれないということです。これは、いわゆる「メディアリテラシー」の立場とは違ってます。メディアリテラシーは、いろいろな情報を分析することでいつか「真実」にたどり着けるという「仮説」を前提にした立場ですが、自分はそもそもそういう考え方を前提にせず、より一般的な立場でメディアについて考えようとしているからです。

ただ、このように言うと、自分はある批判にさらされることになると思います。それは、そんなことを言ったら「誤報かどうかなんて判断すらできないじゃないか」という批判です。「お前は何に基づいて、メディアを批判しているのか」という疑問には、当然答えないといけないでしょう。こうした批判に対し、自分はもう少し先まで考えています。

現代の私たちの社会というのは、それなりに共通する世界観を持っています。そして、何より重要なことは、私たちはその立場からものごとを考えざるをえないということです。どんなに「真実」を訴えても、あるいは「真実なんて存在しない」という懐疑を訴えても、結局、私たちは自分たちが使っている言語で考えるしかないし、自分たちが前提にしている常識に基づいて考えざるをえないのです。私たちは、こうした「常識」や「前提」に縛られてものごとを考えているのです。

ただ、「共通する世界観」と言っても、実はかなり多様な視点を含んでいて、正確さや正しさの度合い、普遍性の度合いに応じて、さまざまなものが含まれています。たとえば、比較的正確さが高そうな基準で「正しい報道」や「間違った報道」があったり、もう少し緩い基準で「正しい報道」や「間違った報道」があるでしょう。たしかに価値観は多様かもしれないけれど、大部分の人が感じるところの「さすがにこれは誤報だよね~」みたいなのはあります。一方、それとは別に、「報道の自由」のような価値観があります。「報道の自由」だって、別に絶対的な価値観ではないのだけれど、やはりみんなが「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」みたいに思ってるので受け入れられているのです。

では、「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」っていう常識はどういう関係にあるのでしょうか。

「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と比べると、「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」っていう常識の方が、長いスパンの問題です。たとえば、先日、サブブログの「ニュースな待合室」の記事で指摘したように(link)、バンキシャが誤報をしたということが、10年後に覆される可能性はあるけれど、「バンキシャの報道が本当に誤報だったどうかを含めて報道を考えていこう」という「報道の自由」の立場は、(ネット右翼が革命でも起こさない限り)10年後も受け入れられているでしょう。「報道の自由」は、憲法を初めとする日本という社会の制度、さらに、国際社会における民主化の潮流などに支えられたものであるのに対し、「バンキシャが誤報をした」という判断は、それに比べてはるかに緩い基盤しか持っていないからです。ただ、一方で、私たちはそもそも限られた知識の中で判断せざるをえないのであり、それを全て疑っていたら生きていくことすらできません。そうやって「生きていく上で信じている事実」という意味で、「バンキシャが誤報をした」というのは事実であると考えるしかない面もあります。たしかに「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と比べると、「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」っていう常識の方が、長いスパンの問題ですが、だからと言って、「さすがにこれは誤報だよね~」という常識に基づく判断を否定して良いわけでもないのです。

なぜ、こういう複雑な事態になるのでしょうか。それは、「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と、「さすがに報道の自由は尊重しないといけないのね~」っていう常識は、別の問題だからです。だから、「バンキシャは誤報をした」いうのと、「報道の自由は大切だ」というのは、「別の視点の問題」として両立します。前回の記事の問題に関して言えば、「バンキシャが誤報」かどうかについて慎重に判断しつつ、「誤報」という判断が間違いである可能性や、報道の自由の問題もきちんと踏まえていく、そういうことが大事ではないかと思うのです。

自分が、メディアの問題や社会問題を扱うときに強調したいことの一つはこういうことです。社会の問題を考えるとき、一つの問題であっても、実は二つの以上の問題が混在している場合があります。バンキシャの問題であれば、「バンキシャの報道は誤報であったのか」という問題と、「誤報を含めた報道をどう尊重していくか」「誤報をどうやって防いでいくか」という問題です。私たちはこういうときに、どうしても一つの方向からの理解に単純化しようとしてしまう傾向にあるでしょう。そして、一方的に片方を擁護したり、逆に攻撃しようとするのです。しかし、社会の問題の多くは、そんなに単純ではありません。そして、単純ではないことを理解することが重要であることも少なくないのです。たとえば今回の問題に関して、報道の手続き上の問題を犯した日本テレビを批判することは必要かもしれませんが、一方で、行政から圧力を受けている可能性を考慮したり、報道の自由の問題について考えることは必要ではないかと思います。

一般に、自分のような主張は、あまり理解されません。なぜなら、「あいつが悪い」と一方的に誰かを攻撃するような主張の方が分かりやすいからです。これは特にマスメディアの報道に関して当てはまります。マスメディアの報道が、一方向に偏りやすいということは良く指摘される通りですが、それは、単に圧力団体の影響を受けているからではなく、「分かりやすい報道」の方が視聴率が取りやすいという、メディアの本質的な問題にも起因するものなのです。これは、マスメディアを批判する側についても全く同じです。ネットの匿名掲示板などでありがちな、マスメディアを「外国勢力の支配化にある」というように単純化された構図で理解する見方などは、その典型とも言えるでしょう。「外国勢力の支配化にある」というような単純化された見方は理解しやすいし、だからこそこういう言説は広まりやすいわけですが、こうした理解をしている限り、いつまで経ってもマスメディアの問題は解消されません。これではマスメディアの問題が、そのままネット空間に移植されるだけであり、何も変わったことにならないのです。

ではどうすれば良いのでしょうか。このブログを開設して以来、自分が一貫して訴えているのは、マスメディアや学問、ネット上のコミュニケーション、あるいはこれらに依存して成り立っている自分自身の思考が、「どのような構造をしているか」を知るということです。それは、具体的には、特定の問題に「どういう問題が混在しているかを知り、それらを分けて考える」ということです。今回取り上げたバンキシャの問題も、その一つの例なのです。こうしたことを考えるに当たって、たしかに「メディアリテラシー」は重要だし、その基礎の一つにはなるでしょうが、自分としてはもう少し大きなことを言っているということを理解していただけると幸いです。

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マンガ版「風の谷のナウシカ」のラストについて

お知らせ:この記事に関する補足記事を書きました

 

「風の谷のナウシカ」は、多くの人が知っているアニメ映画ですが、この映画の原作となるマンガ版の「風の谷のナウシカ」では、ラストが大きく違っているということは有名です。そして、この「マンガ版ナウシカ」は、思想史に残る重要な作品と言われる一方、根強い反対意見もあるようです。特に、ネット上で検索をすると、ほとんどの人がナウシカに批判的なコメントをしています。

自分は、最近、やっと「マンガ版ナウシカ」を読むことができたのですが、ラストシーンでのナウシカの行動に共感すると同時に、「なぜ、ナウシカはあのような行動をとったのか」そして、「なぜ、ナウシカの行動が理解されないのか」ということについて、自分の学問的なバックグラウンドを踏まえて、きちんとまとめておかないといけないと強く思いました。特に、ネット上の意見が誤解に満ちたものであったため、そうした誤解を解く必要があると思ったからです。

最初に強く言っておきたいのですが、このマンガを読んでいない人は、この文章を読み進む前に、ぜひ原作を読んでいただきたいと思います(右のリンクからも簡単に買えます)。以下の文章は、「ネタバレ」であると同時に、「読んでないと意味が分からない」書き方をしているため、このマンガを読んでいない人にとって、百害あって一利なしの内容だと思うからです。

続きを読む "マンガ版「風の谷のナウシカ」のラストについて"

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科学とニセ科学の関係

ニセ科学批判は、科学と同様にそれ自体が目的ではなく、道具にしかすぎない。科学が悪用されると、甚大な被害が人々にもたらされるのと同様に、ニセ科学批判も悪用されると、ニセ科学よりも大きな被害をもたらすおそれがある。もちろん、ニセ科学批判の善用もありうるので、善用は肯定するとして、悪用については批判するということになる。

ニセ科学批判の善用・悪用/社会学玄論

自分は「科学」を客観的・絶対的に肯定するつもりはありませんが、それでも「ニセ科学」には批判的です。

たしかに、引用した「社会学玄論」の記事にあるように、科学というのは、普遍的・絶対性な正しさを持つものではありません。しかし、それは現代社会に生きる私たちにとっての「言葉」であり、現代社会が共有する「認知世界」でもあります。一般に、ある事実や説明が「科学的であるかどうか」は時代とともに変わるものであり、普遍的な「科学的事実」などないわけですが、それぞれの時代の研究の動向に即して、それぞれの時代における「科学的事実」があると考えることができます。

こうした「科学」と反するものに対して、科学の側から「それは科学ではない」するのは至極当然のことでしょう。ただし、科学というのは、「それは科学で説明できない」ということを主張することができても、「科学的にありえない」ということはできません。「科学的にありえない」と言えたとしたら、それはせいぜい「今の科学では経験的にそう考えた方が良いとされている」という意味であり、論理的な意味で「科学的にありえない」と言うことはできないのです。

さて、「ニセ科学」というのは、字義通りに言えば、科学ではないにもかかわらず科学であると主張するような理論のことです。これは科学的に間違いであることが示すことができます。ただし、そこで示されるのは、ニセ科学が「科学的にありえない」ということではありえません。すでに述べたように、「科学的にありえない」という主張は科学的な主張ではないからです。しかし、ニセ科学批判は、その時代の科学に基づき、ニセ科学が「科学的な主張ではない」と主張することはできます。「ニセ科学批判」がこうした自身の限界について理解しているとき、それは「科学的」に(=科学という視点に立てば)正しいものだし、人間にとって有効なものではないかと思います。

たしかに、一部の「ニセ科学批判」が「科学的にありえない」という主張と、「科学的な主張ではない」という主張を混同しているのは事実だと思いますが、「社会学玄論」の記事のように、ひたすら相対主義的な立場を取ることは(理論的には可能でも)、あまり有用な考え方とは思えません。

むしろ、この手の、通俗的な相対主義の見方は、実は「普遍的な真理」の存在を無意識のうちに前提にしていると思います。たしかに「普遍的真理」を仮定するのなら、その立場から見て、科学とニセ科学はどちらが正しいというものではないということになるでしょう。しかし、私はそうは考えません。「真理」そのものが、何らかのコミュニケーションの単位の認知世界(たとえば、科学コミュニケーションシステムの認知世界)においてしか成立しない以上、「普遍的な真理から見たら、どちらも相対的」という通俗的な相対主義の言説自体が意味のないものだと思うからです。「科学」は論理的には一つに視点に過ぎないが、現代社会では有用なものとしてたしかに成立しているもの。そのことを認めた上で、その立場から何が議論できるかということを考えた方が有意義な議論が可能になるのです。

自分が「情報学」として構築しようとしているのは、こうして「問題によって自在に準拠軸を設定しつつ、適切な議論を行っていく」ことを可能にする思考のフレームワークです。ニセ科学の問題は、こうした自分の立場を端的に表していると思い、取り上げさせていただいたものです。

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少子化と子育ての価値観

社会人向けのWEBマガジンサイト『ヨルコ×ヨルタ』を運営するサイバーマップ・ジャパンは16日(月)、社会人男女を対象にした"婚活"の調査結果を発表した。同調査によると"婚活に必要なもの"は、男女ともに「積極性」(女性41%、男性42%)がもっとも多かったが、女性の次点が「時間」「運」(ともに13%)なのに対し、男性は「お金」(24%)という回答がランクイン。なかには「仕事がこの不景気で給料も安く、結婚するにもそれがネックで踏み切れないのが現状」という切実な声もあり、先行き不透明な景気不安が、男性の婚活心理に影響を与えていることが垣間見える結果となった。

男性の婚活、"経済力"が心理的重圧に

自らの「経済力」を理由に結婚したがらない男性が多いというのは良く言われる話です。この背景には、女性が結婚相手の男性に経済力を求める傾向があるということがあるでしょう。そのために、男性からすると、「お金がないと相手に高い条件を求めることができない」ということになってしまうのです。

これは、現実としては当たり前のように思うかもしれませんが、理由を考えると意外に不思議ではないでしょうか。「お金なんてなくても結婚できるじゃない」という見方もできるからです。Beckerのモデルによると、結婚は共同生活によって、生活コストを下げるためのものとして理解されます。そうだとしたら、社会全体として低所得な男性が増えたとしても、結婚市場の需要と供給のバランスで、男性に要求される所得の水準が低くなるだけであり、それが初婚の遅れを招くことはないはずでしょう。

要するに、今日の晩婚化、少子化は、Beckerのモデルに基づく自由な「結婚市場」を想定することでは理解できないのです。では、結婚市場において市場原理を妨げる要因とはなんでしょうか。もちろん文化的な要因を挙げればきりがないでしょうが、経済的な問題に絞れば、「養育に関する価値観と現実のギャップ」が重要な問題として挙げられるのではないかと思います。

今の日本では、教育を義務教育まで、食費や被服費など最低限で済ませれば、二人の大人の所得で一人や二人の子どもを育てるのは無理なことではありません。そして、それでも問題ないという価値観を持っている人(これはおそらく、親の学歴や社会階層に依存します)であれば、結婚をためらう理由はあまりないでしょう。

しかし、多くの中流階級の人々は、自ら、最低でも「ホワイトカラー正社員」以上のステータスを持つ仕事に就きたいと考え、自分の子どもにも同様の条件を満たした仕事をさせたいと考えています。ところが、今の日本で、子どもを大学に行かせて、それなりの評価を受けた大学に行かせようとすると、子どもを育てるのに必要な経済力は非常に高いものになっています。公立の小学校・中学校のみの場合と比べ、私立中学・高校、大学の学費、これに塾などの費用を加えただけで、最低一人当たり100万円/年の増加は避けられなくなるでしょう。しかも、今の日本では、親の世代(20代~30代)でさえ、「ホワイトカラー正社員」以上のステータスの仕事に就くのは簡単ではなく、厳しい競争に晒されています。こうした状況で確実に「ホワイトカラー正社員」以上の仕事ができるような教育を施そうと思ったら、必要な投資は莫大なものになってしまうのです。

つまり、「ホワイトカラー正社員以上の仕事をして一人前」という価値観を持った「中流」意識のある男女にとって、結婚相手は、この条件を満たす経済力を持っている相手に限られることになるわけですが、多くの人がそれだけの経済力を手にしていない。ここに少子化・晩婚化の原因があるのではないかと思います。

ではどうすれば良いのでしょうか。二つの解決策があると思います。一つは、「追加の教育投資をしなくても、本人の能力を活かすような教育を受けられる」ようなシステムを構築すること。もう一つは、「ホワイトカラー正社員」でなくても、安定した生活ができるような社会保障システムを構築することです。いずれにせよ、社会福祉の充実こそが、晩婚化・少子化を食い止めるために必要だということになります。今回取り上げた話は、厳密に言えば「こういう側面もあるのではないか」という仮説であり、実証的な議論ではありませんが、「少子化」の問題が、一般に思われているよりも複雑な議論だということは分かるのではないかと思います。

さて、少子化の問題には、別の複雑な問題が関係しています。純粋に日本企業の国際競争力の向上を考えるのであれば、理論上は、「移民や短期労働者を受け入れ、少子化はそのまま、福祉もそのまま」という社会が一番優れているということになるでしょう。しかし、それはあたかも人間が経済活動の手段となっているような世の中。目的と手段の関係を逆転させているような気がしてなりません。「結婚をしたい人が結婚をできる」「子どもを産みたい人が子どもを産める」ようにすることは、単に少子化を解決するためだけではなく、「人間が人間らしく生きられる社会」を作っていくためにも必要ではないかと思うのです。

自分には、こうした複雑な問題を解きほぐして全て解決するだけの知識も能力もありませんが、間違いなく言えるのは―多くの社会の問題がそうであるように―少子化の問題はまさに「価値観の問題」だということではないでしょうか。

○参考記事

[日記]高学歴女性の未婚問題/pal-9999の日記

○関連記事

秋葉原通り魔事件と負け組とニートと/情報学ブログ
→「ホワイトカラー正社員」という価値観の問題について、少し前に書いた記事で、この記事の内容と深く関係しています。

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正論原理主義という病

ウェブを中心に受賞辞退を求める動きもあったが、パレスチナで起きていることへ関心を集めた点で「有意義」な問題提起だったと見る。他方、「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている。

村上春樹さんがエルサレムに行った理由 誌上で告白

村上春樹の「正論原理主義」という言葉が、一部のブロガーから反発を受けているようです。自分はそのことをとても悲しく思っています。ネットの言論は、せいぜいその程度なのかと幻滅することになったからです。

「正論原理主義」という言葉を、ネット空間に慣れた人に説明するには「マスメディアが一方的に何かを攻撃するときの態度」というと分かりやすいでしょう。ネットコミュニケーションにおいて、マスメディアの報道姿勢は、しばしば「偏向」と言われますが、これは半分正しく、半分正しくないと思います。彼らは彼らで「客観的」な正しさを追求した結果、あのような報道を行っていると思われるからです。私たちはある固定したコミュニケーションの中で事実を理解しようとすると、しばしば一つの見方にとらわれたものになり、「原理主義的」、さらに言えば、「偏向的」なものになっていきます。マスメディアが「偏向」しているように見えるのは、まさにこうした「正論原理主義」の結果にほかならないのです。

この説明でもまだ分からないというのなら、アメリカの大量殺戮に対抗するために同時多発テロを起こした(と言われる)テロリスト、あるいはそれに対抗するために戦争をしかけたブッシュのアメリカも、「正論原理主義」と言えるでしょう。彼らも自分なりの「正義」を振りかざしているのであり、「正論」かどうかに関して批判することはできないと思います。

これは、ネット空間においても全く同じです。先日、自分が書いた記事に対して、たくさんのコメントをいただきました。自分が書いた記事は社会的に利害が対立する問題に対して、双方の主張を踏まえて結論を出すというものだったのですが、コメントのほぼ全ては一方的に関係者を攻撃するものだったのです。それらのコメントは全て、私の結論に賛同を示すものだったのですが、コメントに目を通しながら、ものすごく悲しい気分になりました。マスメディアに対する「偏向」という批判は、ネット空間にブーメランのように返ってくるということを忘れてはいけないのです。

村上春樹の「壁と卵」の譬えは、「なんだかあまり良くない譬えだな…」と思ったので、リアルタイムでコメントしなかったのですが、「壁」が意味しているのは、こうした「固定した視点」「固定した価値観」にほかならないのではないかと思います。これは、村上氏が「制度」や「暴力」ではなく、わざわざ抽象的な「システム」という言葉を選んだことから明らかでしょう。あらゆるシステムは、固定化する傾向がある。具体的に言えば、政府もマスメディアも、そしてネット空間も「壁」になりえるのです。「壁」は私たちの心の外側になるものではなく、私たちの心の中にある。ネットにしてもマスメディアにしても、そのことに気づいたとき初めて、「壁」(=原理主義的思考)を克服していくことができるのではないでしょうか。

しかし、以下のような教養のかけらもない批判が受けていることを思うと、そうした時代が来るのは、まだ遠い未来のことのように思えてきます。

「正論」の反対語が誤論なのか、邪論なのか知らんが、芸のない正論が芸術的観点から面白くないと批判されることは十分ありえるとしても、正論が正論であることを主張するという当たり前の態度を、あろうことか原理主義と呼んで恥じないその精神構造はどうなっているのだろうか?

わたしとしては、「正論原理主義」という醜悪な表現は容認できない

「正論原理主義」などという醜悪な表現が卑しくも小説家の口から

この人は、内田樹氏による「壁と卵」の解説も全く理解できていないようなので、(参考)まともに取り合っても仕方ないかもしれませんが、それにしても、この無自覚さには悲しくなります。

このブログのテーマである「情報学」とは、人間のあらゆるところに存在する「正論原理主義」を克服するための学問だと私は理解しています。「正論原理主義」を克服するとは、「正論原理主義者」のように、「現実逃避」をしたり、「現実の自分を否定して、殻に閉じこもる」ことを止めて、「絶対的な自己肯定」をすること。たしかに、多様な価値観が存在している現実から目を背け、小さな正義を振りかざすのは楽です。同じような価値観を共有できる人がいれば、つかの間の安心を得ることもできるでしょう。しかし、それこそ「弱い人間」の生き方、「自己否定」「現実逃避」の生き方にほかなりません。こうした自分を克服することによって初めて、ネットにも、マスメディアにも、そして政治にも、より良い未来があるのではないかと思います。

○参考記事

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治/情報学ブログ

村上春樹「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」/活字中毒R

○追記

興味深い記事を見つけたので、追記させていただきます。基本的にこの記事と同じ趣旨のものですが、具体例などがあってとても分かりやすいと思います。

うちのこどもと、「正論原理主義」/よそ行きの妄想


お知らせ

本文で引用した「「正論原理主義」などという醜悪な表現が卑しくも小説家の口から」の記事内で、追記として再反論をいただいたので、はてな内に再々反論を掲載しました。このブログ内で紹介するようなことでもないと思うので独立した記事にはしませんでしたが、彼の記事に興味を持った方には、合わせて読んでいただければと思います。

「正論原理主義の病」に関連して再々反論

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[ご挨拶] 累計アクセス数が30万件を突破

本日、ブログへの累計アクセス数(PVベース)が30万件を突破いたしました。2007/1/14の開設以来、一日あたり平均388件のアクセスになります。

ブログは読者の皆様とのコミュニケーションの場であり、皆様からいただくコメントやリンクを通して成長していくもの。まだ、それほどアクセスが多いブログではありませんが、ゼロから始めてここまで来られたのは読者の皆様のおかげであり、大変感謝しています。

今後とも情報学ブログをよろしくお願いします。

○参考(16:40現在のアクセスの内訳)

括弧内はPCサイト/携帯サイトの順番です。

情報学ブログ(71467/10370)
ニュースな待合室(173203/33968)
のりねこのラプソディ(8551/1850)

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[映画]存在の耐えられない軽さ

「存在の耐えられない軽さ」は、あまりにも有名な作品ですが、恥ずかしながら、最近やっと映画を見ることができました。3時間近い映画であるにもかかわらず、一瞬も無駄がなく、見ていて飽きることがありません。

さて、この物語は大きく分けて3つのストーリーの核があるのではないかと思います。それは、「恋愛」「政治」「自由」の3つです。「恋愛」と「政治」ということに関して言えば、この物語は、似たような多くの物語の一つと言えるかもしれません。しかし、それを「自由」というキーワードで結びつけたところに、この物語のおもしろさがあるのです。そして、最後の「自由」の問題が、哲学的な「自由意志の問題」、さらには「存在の耐えられない軽さ」というタイトルと結びついていることが、この作品が「名作」と言われるゆえんではないかと思います。


===ネタバレ注意!!物語の結末や核心に触れることが書かれています===


・恋愛と政治

まず、「恋愛」に関して言うと、この物語は男女の三角関係を描いたオーソドックスなストーリーと言えます。舞台はチェコスロバキアの首都、プラハ。優秀だがプレイボーイの脳外科医トマシュは、テレーザと結婚しても、芸術家のサビーナとの関係を切ることができません。これは、チェコ事件によってチェコスロバキアがソ連の支配下に置かれ、トマシュがサビーナを追ってスイスに亡命した後も変わらないのです。トマシュはスイスでもサビーナとの関係を続けるだけでなく、新しい女を町で引っかける毎日。テレーザはそんなトマシュに愛想を尽かし、プラハに帰ってきてしまいます。サビーナもアメリカに渡り、全てを失ったトマシュはテレーザを追ってプラハに帰ります。しかし、トマシュは命の危険を冒してまでプラハに帰ったにもかかわらず、相変わらずの浮気をする毎日。そこで、テレーザは一度だけ不倫をしてしまいます。しかし、良心の呵責に耐えられず、「プラハを去ろう」と言うテレーザ。そこから二人の農夫としての幸せな生活が始まるのです。こうしてトマシュに嫉妬をするテレーザの心情描写と、「自由」で「軽い」トマシュとの対比がストーリーの核の一つになっています。

しかし、この物語には「政治」というもう一つのストーリーの核があります。そこで描かれるのは、「プラハの春」「チェコ事件」をめぐる言論弾圧とそれに抵抗する人々の姿です。トマシュは、チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」以降、急速に認められつつあった言論の自由を背景に、共産党幹部を風刺した小説「オイディプス」を刊行します。ところが、その直後に、ソ連が「プラハの春」を阻止するためにチェコスロバキアの全土に制圧するチェコ事件が起きてしまうのです。写真家として活動をしていたテレーザは、ソ連軍とそれに抵抗する民衆の様子を次々に写真に収めていきます。その後、トマシュとテレーザは「オイディプス」の件もあって、スイスに亡命することになるわけですが、問題はトマシュの浮気が原因でテレーザがプラハに戻ってから。トマシュとテレーザはチェコスロバキアに入国するときにパスポートを取り上げられてしまいます。さらに、トマシュは「オイディプス」の撤回声明を拒絶したことで医師免許も取り上げられ、窓ふきの仕事をすることになります。ここでは、命の危険すら顧みず撤回声明を拒絶するトマシュの「軽さ」と「自由」へのこだわりが描かれていると言えるでしょう。

・自由

さて、こうした「恋愛」と「政治」という、ある意味ありふれたテーマの上に描かれるのが「自由」というテーマでしす。テレーザとトマシュがソ連軍占領下のプラハに戻るのも、医師の仕事を追われるのも、農夫としての人生を歩み出すのも、全てトマシュの「軽さ」が原因ですが、このことは物語の鍵となっているのです。

テレーザがトマシュの浮気に愛想を尽かしてプラハに戻るとき、以下のような手紙を残していきます。

トマシュ。私はあなたを助けなければいけないとは分かっているけれど、私にはそれができません。今の私はあなたの助けになるのではなく、あなたの重荷になっているもの。人生は私にとっては重いものだけど、あなたにとってあまりにも軽すぎる。私はこの軽さ―この自由に―耐えられない。私はそんなに強くないの。プラハでは、私はあなたの愛だけが必要だった。でも、スイスに来てから、私は全てのものをあなたに頼っている。もし、あなたが私を捨てるようなことがあったら、私はどうすれば良いの?私は弱い人間なの。だから、私は弱いものの国に帰ります。
Tomas, I know I'm supposed to help you. But I can't. Instead of being your support, I'm your weight. Life is very heavy to me and it is so light to you. I can't bear this lightness, this freedom. I'm not strong enough. In Prague, I only needed you for love. In Switzerland I was dependent on you for everything. What would happen if you abandoned me? I'm week. I'm going back to the country of the weak. Goodbye.
I'm sorry, but I've taken Karenin.

日本語では「重い女」なんて言う表現が日常的に使われますが、テレーザは要するに「重い女」なのです。それに対して、トマシュは「軽い男」。この軽さに「耐えられない」というのが、とりあえずの手紙の意味です。ただ、この手紙の中で、軽さ=自由という関係が示されていることは、物語全体を理解する上で非常に重要な意味を持っていると思います。トマシュは、政治についても、恋愛についても「軽さ」のために、パスポートを失い、医師免許を失い、農夫としての人生を歩むことになるわけですが、そこに全く悲壮感はない。それは最後に衝撃のハッピーエンドの結末となることからも分かるでしょう。要するに「軽さ」が「自由」として称えられている。そのことこそが、この物語の特徴と言えるかもしれません。

私たちには、ともすると人生を「重く真剣に考える」べきものであり、そのことでより良い人生が送れると考えている節はないでしょうか。実際には「重く真剣に考えた」ことがないという人も、そういう自分に引け目を感じていたり「重く真剣に考える」ことそのものは素晴らしいと思っているということは多いのではないかと思います。しかし、「本当にそうですか?」と問いかけるのが、この物語なのです。

ただ、単に、テレーザ=重い(社会に束縛されている)、トマシュ=軽い(自由)と考えるとしたら単純化のし過ぎであり、この物語を表面的にしか理解していないことになると思います。これについてはすぐ後で考えていくことにしましょう。

・自律的に変化する<私>

さて、この作品のタイトルに、「存在」という言葉が入っているのはどうしてなのでしょうか。「存在」というと、論理的に示されるような客観的、普遍的な存在というイメージを持つ人もいるかもしれません。しかし、この物語が言う「存在」はそういうものではなく、常に変化する<私>の存在と切り離せないものなのです。常に変化する<私>にとっての存在は、また常に変化するものでしかありません。これは「情報解釈は自律的に変化する主体によってなされる」という情報学の基本的な考え方とも一致します。

こうして常に変化する<私>という存在が、常に自らの選択を力強く肯定していくことは、決して簡単なことではありません。時には「耐えられない」と思うこともあります(詳しくは以前書いた記事を参照)。そういうとき、ソ連の支配下のチェコスロバキアに帰ったテレーザのように自分の外側に救済を求め、「ある価値観にしたがっていく」ことを選べば楽です。しかし、テレーザ自身も認めているように、それは「弱い人間」のやることなのです。

それに対し、トマシュは政治に関しても、恋愛に関しても、決して周囲の価値観に流されることはなく、自分の選択に責任を持っていた。一見して軽いように見えるトマシュですが、実はさまざまな葛藤があり、そうした中で彼なりの選択をしていたはずなのです。普通のラブストーリーなら、トマシュは「欲望に負ける弱い人間」ということかもしれませんが、この作品では全くそういう描かれ方がなされていないことも注目に値するでしょう。トマシュこそ本当の「強さ」を体現する人間なのです。

この立場から見ると、プラハに帰ることを決めてからのテレーザの行動は少し違った目で見ることができるかもしれません。それまで、トマシュの浮気を悲しむしかなかったテレーザは、「ソ連支配化のプラハに帰る」というとんでもない行動を取ることでトマシュに強い意思表示をします。また、トマシュがプラハに来てからも、テレーザはオイディプスの撤回声明を書かないというトマシュの選択を一人支持することを伝えます。そして、いつまで経っても止むことのないトマシュの浮気に対抗するために、自らも浮気をする。テレーザは「弱い人間」と言いつつ、実は「強さ」も持っているのです。そして、そのことは結果として、二人の農村での幸せな暮らしに結びついていきます。

このように考えると、「存在の耐えられない軽さ」の「軽さ」とは言い換えれば「常に変化する(<私>の存在という)現実」ということになるでしょう。こうして「常に変化する現実」は簡単には「耐えられない」。しかし、トマシュとテレーザは「強さ」によってそれを乗り越えていくのです。

この作品が素晴らしいのは、こういう本質的な問題を、「恋愛」「圧制下の政治的自由」という二つのテーマをコラージュのように組み合わせながら、美しく描き出しているということでしょう。長い映画ではありますが、こういう問題に少しでも興味を持っている人なら、少なくとも見て損をしたと思うことはないのではないと思います。

○追記

一応言っておかないといけないと思うのは、この映画の原作となった同題の小説には、冒頭部分に「ニーチェの永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた」という言葉が入っているということです。要するに、トマシュが表現しているのは「超人」であり、「自由」や「意志」に関してもこの立場から見るべきだというのが通常の理解でしょう。本文で書いたことも、基本的にはこうした理解に沿ったものです。この記事はあえてそれを、ちょっぴり情報学的な言葉で説明したものと言えます。

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情報伝達と「心」―動物に心はあるのか?

チリの高速道路で轢かれた犬を、別の犬が路肩まで引きずっていくというYoutubeの映像が話題になっています。この映像に関して書かれたブログの中に、以下のようなものがありました。

助けに行ったって事は、事故にあって傷ついているとか
そこに居たら危険だって理解してるって事でしょ?
大変だ!助けなきゃ!って気持ちがあるんだね
レスキュー犬★/ミカンのohana

心というものは、人間だけしかないと考えられているが、仲間を助けるという行動は心などというよりも、本能なのかもしれない。
Instinct/shine

こういった日記に学問的にコメントをするのは、申し訳なくもあるのですが、これを読んで、ふと、「犬に心はあるのか」という問題について書こうと思ったのです。

いったい、犬に「心」はあるのでしょうか?結論から言えば、「とらえ方によって違う」ということになるのではないかと思います。これは当たり前のように思うかもしれませんが、情報学的には非常に重要なことです。

○心の定義の限界

現代の科学者は、「心」というものを科学的な研究対象とし、「心があるかないか」を客観的な基準によって決めようとしました。たとえば、「心があるのは人間だけだ」、「いや、霊長類にも心がある」といったようなものです。しかし、デイヴィッド・チャーマーズが「意識のハードプロブレム」という言葉で批判したように、こうした研究は決して実証的な研究にはなりえなかったのです。たとえば、「犬に心がある」という研究は、「犬を感情移入しているのに過ぎない」という理由で批判されていたわけですが、では人間に感情移入をしないで、「人間に心がある」ということを言えるのかというと、それも微妙なのです。

このことは「哲学的ゾンビ」という言葉によって端的に示されます。哲学的ゾンビとは、「他の人から見ると普通の人間と同じように振る舞うが、他の人と同じような経験を持たない。したがって心を持たない」という存在です。チャーマーズが主張したのは、実証的な研究から、人間は「哲学的ゾンビではない」という証明をすることができないということでした。つまり、犬も人間も哲学的ゾンビに過ぎないかもしれず、いわば、感情移入をすることによって初めて「心がある」と見なされているのに過ぎないのです。

○情報解釈と心

さて、情報解釈という点について、人間と動物は多くの共通点を持っています。人間も動物も、「生きる」ということによって、自律的に情報解釈をしているからです。このことを生物学的な表現で言えば、さまざまな情報は、「その情報を解釈することで、自分の生存にプラスになる」という「生きるための情報」だと言うことになるでしょう。この意味から言えば、情報とは全て「生物にとっての情報」「私にとっての情報」であるとまとめることができるのです。

ただ、この意味での情報は、「それぞれの個体に固有の情報」であって、人に伝えたり、書き留めたりすることのできない情報です。これに対し、人間のような生き物では、情報伝達を行います。情報伝達を行う人間の場合、「自分と同じように情報解釈する存在」を、他の存在と違う性質があるものと考え、コミュニケーションを行うことになるでしょう。ここで「自分と同じように情報解釈する」とは言い換えれば「心がある」ということにほかなりません。こうしてコミュニケーションを通して、「自分と同じようい情報解釈をする」という理解が生まれてくるとき、初めて「心」の存在が立ち現れてくるというのが、情報学の立場からの「心」の理解ということになるのではないかと思います。

○犬に心はあるのか?

こうした立場から、冒頭の映像の犬に心があると言えるのか考えてみたいと思います。一般的な理解にしたがえば、「shine」のブロガー氏が言っているように、「心というものは、人間だけしかないと考えられている」ということになるでしょう。生物学的に、本能と心は対立する概念ではないので、「本能」というのは言い過ぎですが、心を想定しなくても説明できる学習行動として犬の行動を説明することはできると思います。

ただ、仲間の犬を助けるという犬の行動が、「人間と何か共通するものがある」として犬に対する共感を持ちながら映像を見ることもできます。これには、「ミカン の ohana」のブロガー氏の「大変だ!助けなきゃ!って気持ちがあるんだね」というコメントが端的に表しているでしょう。このように犬を見るとき、その人は犬に心を見いだしているということになると思います。

要するに、冒頭で引用した二つのブログの記事はどちらも間違っているわけではないのです。

○「心とは何か」にまつわる問題

こうした「心があるかどうかはとらえ方次第」という見方に対しては、「それじゃ議論する意味がないじゃないか」という人がいるかもしれません。しかし、そうではないのです。

「心があるかどうかは科学的に決められる」という見方によれば、「脳死の人に心があるか?」という問題、「重度の痴呆の人に心があるか?」という問題も、「科学的」に決められることになるでしょう。「科学的な結論」では、基本的にその人の「能力」や「機能」に焦点が当てられます。たとえば、「他の人とコミュニケーションする能力がないのなら、心などあるとは言えない」というような「科学的な結論」が導かれるのです。こうした「科学的な結論」は、脳死の人はもちろん、植物状態の患者、痴呆の患者、精神障害者に対しても治療を停止して医療費を節約したり、彼らの身体を臓器移植等の「医療資源」として活用することを可能にしていくものです。

しかし、心というのがそもそもコミュニケーションや社会的な関係によって成り立つものだとしたら話が違います。たとえば、脳死の人は脳幹の機能はなくても、手を握ったら握り替えしてくるというような反応をすることができるわけですが、これをある種の「コミュニケーション」とするのなら、別の意味で「心」があることになるからです。このように理解するなら、かりに、脳死の人からの臓器移植を認めるとしても、「心のない物体(死体)」からの臓器移植ではなく、「生きている人に対する合法的な殺人」として理解されないといけないことになるでしょう。こうした見方は、森岡正博が『脳死の人』で指摘したように、脳死臓器移植に対するより手厚いサポートの必要性を訴えていくことや、場合によっては脳死臓器移植の廃止論に結びつきます。

こうした「心とは何か」という問題は、医療の場だけの問題ではありません。「外国人には心なんてない」という排外主義、「犯罪者には心はない」という犯罪厳罰化論はもちろん、生活保護や障害者福祉を巡る議論にも、「心」の問題が絡んでいるからです。

「心」の問題とは、「コミュニケーション可能性」の問題であり、「共感可能性」の問題にほかなりません。人は、自分が「コミュニケーションできる範囲」「共感できる範囲」を定め、その外側に対しては共感することを拒否するわけですが、その範囲こそ、私たちが「心がある」と考える対象の範囲だからです。時には暖かく、時には残酷な働きをする「心」の概念。「心」について良く知るとは、こうした社会の問題について知ることにほかならないのではないかと思います。

○関連記事

今から2年ほど前に、かなり近いテーマで書いた記事です。

人を殺してはいけないということについて/情報学ブログ

○参考記事

“ヒーロー犬”の行動に、襟を正す人々/ココログニュース ブログ発

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